2004年8月4日

 前回に関連します。

 インターネットに限らず、手紙でも作文でも、自己表現をする時、意
識的な場合と無意識の場合がありますが、人は生身の自分を表現し
ているわけではありません。それは不可能ともいえるでしょう。という
のは、生身の自分などというものは複雑怪奇な存在で、また絶えず
変化しているものでもあるので、自分でもつかまえきれるものではな
いからです。

 したがって、文章で自己表現をする時、人は何らかの割り切りをし
て、自分のスタンスを決めて文章を書きます。プロであれば、生身の
自分とは遠く離れた自分というものを仮構して文章を書くこともできま
す。

 そして、必ずしも年齢どおりというわけではありませんが、大人は自
分のスタンスを決めるに際して、他人の攻撃を誘発しないよう、自己
防衛的なスタンスを選択する世間知というものをもっています。

 それに対し、子供の場合は、「素直で正直なのが子供のいいところ
である。」というイデオロギーによって、本来不可能であるはずの生身
の自分を表現する文章を書くことが促されます。
 これがとても危険なことなのです。人前に生身の自分を、あるいは
生身の自分だと思い込んでいる自分をさらしてしまって、そこを攻撃
された場合、本人は自分の人格を全面的に攻撃されたように感じて
しまいます。そして、ひどく落ち込むか、攻撃者に対して強い憎しみを
抱いてしまいます。

 他人を傷つけないインターネット交信におけるエチケットというような
加害者にならないための教育がなされつつあるようですが、インター
ネット交信で自分が傷つかないようにという被害者にならないための
教育も一方で必要と思われます。
 具体的には、文章を書いている自分のスタンスを自己確認する必要
が教えられるべきでしょう。そうすれば、仮に自分の書いた文章が攻
撃された場合、それはダメージではありますが、自分のスタンスのとり
方が攻撃されたのだという解釈をすることによって、スタンスのとり方
の反省という対応が可能となると考えられます。