2004年8月17日

 人がものを考えるとき、「言語」で考えるというのはおおむね正しい
でしょう。
 このことは、人が「言語」で構成された世界、あるいは「言語」で秩
序立てられた世界で生きているということを表わしています。

 そうだとすると、我々がふつうそのようなものと考えている世界は、
「言語」によって制約されているともいえることになります。

 すなわち、「言語」によって表わされていないものは存在していない
ことになっています(例えば、かつて素粒子もDNAもそんな単語はな
く、存在しているとは考えられなかった)。
 また、「言語」は人間の歴史と伝統によって築き上げられたもので
あるため、その「言語」による世界は歴史と伝統によって制約された
世界でもあるということになります(例えば、かつて「消費者主権」「環
境権」「男女共同参画型社会」などという言葉はなく、世界がそのよう
な観点から眺められることはなかった)。

 そうなりますと、「言語」の制約を超えて、我々が生きている世界を
より知りたいという欲求が出てきますが、そこで2つの考え方がありま
す。

 人が生きている世界を精神的世界と物質的世界に分けたとして、1
つは、精神的世界にも物質的世界にも、実質的な構成要素があって、
それらが何らかの秩序、何らかの法則を有しており、「言語」は明らか
にされたその構成要素、秩序、法則を反映したものであるという考え
方です。まず、実態というものがあって、それらが明らかにされるにし
たがって、「言語」がそれらを反映するにすぎないという考え方です。
 もう1つは、実態は本来混沌としたものであって、その混沌とした世
界を人が生きていくために、混沌とした世界を「言語」によって区分し、
構成し、秩序立てたという考え方です。「言語」が混沌の中から人が生
きている世界を創っているという考え方です。
 「言語」に先んじて実態があると考えるか、「言語」が実態を創ると考
えるか、という2つの考え方です。 (長くなりますので続きは次号)