2010年11月13日(出来たて)

 「形而上学」とは一体どういう範囲のことを取り扱う学問なのかということを考えてみました。

 そのためには、あまり使用されていない言葉ですが、「形而上学」に対する言葉である「形而下学」という言葉を使って、その対象範囲を考えることが分かりやすいように思われます。


 「形而下学」とは、人間の生存にとって制約条件となる物質・エネルギーに関する知的探究のことをいうものです。

 物理学、化学、生物学等々の自然科学は当然のこととして、人間の生存にとって制約条件となる人間それ自体に関する知的探求である人文科学、同じく人間の生存にとって制約条件となる社会に関する知的探究である社会科学も、「形而下学」です。

 

 これに対して「形而上学」は物質・エネルギーの世界の範囲の外の世界を扱う知的探求です。

 従って、「物質・エネルギーの範囲を超えた、物質・エネルギーの制約を受けない宇宙・世界の構造」、「その創造者」、「神」、「それらを感知する人間の精神」「心」「それらの探求から生ずる価値」、このようなことが「形而上学」の知的探求の対象になります。


 その結果、「形而上学」から人間の生存にとっての制約条件にこだわらず、それらを無視する考え方が出てくることがあります。

 また、同じ対象を「形而上学」からも「形而下学」からも取り扱うことがあります。

 例えば、人間の芸術活動を人間の生存にとっての制約条件のひとつとして取り扱えば「形而下学」となりますし、「物質・エネルギーの範囲を超える宇宙・世界の構造」に関する探求のひとつとして考えれば「形而上学」となります。

 宗教は、まさに「神」についての知的探求として「形而上学」でもありえますし、人文科学、社会科学の対象、すなわち「形而下学」の対象とすることもできます。

 さて、最高度の知的営みにおいても、往々にして、その知的営みが「形而上学」的知的営みなのか、「形而下学」的知的営みなのか、明確な認識をもたないまま、「形而上学」的知的成果を「形而下」の世界に持ち込もうとする場合があるように思われます。

 端的な例としては「地上における神の国の実現」といった宗教活動が上げられますし、東洋思想優越感を背景にした戦前の国粋主義にもその例を見ることができるように思われます。

 そのような場合、「人間の生存にとっての制約条件」を無視した非現実的な企てになりがちであり、現実からのしっぺ返しを受け、大きな悲劇を人々にもたらせます。

 

 一方、「形而下」の世界のみが実在であるとの判断のもとで、「形而下」の世界でよきことであるならば、それですべてよしとするという、例えば経済至上主義のような考え方があります。

 このような考え方は、人間が「形而上」と「形而下」の二つの世界に実際に直面していることを無視したものであり、基礎においている価値観の根拠が吟味不足で脆弱なため、人々をニヒリズムに導き、不幸をもたらせます。