2004年12月27日
現代社会で賞賛される「生き方」の中に「ドラマチック」「ロマンチック」と
いうものがあります。
「あの人の人生はドラマチックであった」「あの人はロマンチックな生き
方をしている」というのは現代において最大級の賛辞でしょう。
その結果、人々は「ドラマチック」「ロマンチック」を追い求めることになっ
ています。
しかし、それは同時に「ドラマチック」「ロマンチック」の対する強い欠乏
感を生じさせることになり、「ドラマチック」「ロマンチック」でないことによる
不幸という感覚をもたらせています。
「ドラマチック」でもなく、「ロマンチック」でもない自分の人生は無意味で
あるというような感覚です。
さて、そもそも「ドラマチック」「ロマンチック」とは、反法則的、反秩序的、
非日常的という内容を持っている言葉です。(ニーチェの「神の死」と密接
な関連があると思います。)
法則に従っているままではなく、支配されている秩序から逸脱し、日常
的繰り返しではない生き方をするからこそ「ドラマチック」「ロマンチック」な
のです。
ということは、「ドラマチック」「ロマンチック」とは、短い時間においてしか
成立しない、持続性のないものということになります。
持続的生き方は法則、秩序に基礎をおいた日常にこそ支えられている
ものだからです。
したがって、「ドラマチック」「ロマンチック」の欠乏状態というのは、誰に
とっても不可避であり、宿命的なものであり、その欠乏によって不幸を感
じるのは空しいだけのことと考えられます。
そして、社会全体が、そのような不可能を求め、欠乏感に覆われるとい
うことには不健全性があり、弊害を生じさせるものではないかと思われま
す。
ところで、持続的生き方は法則、秩序を基礎においた日常に支えられ
ていると書きましたが、それは人間が生物として物質代謝の世界で生き
ているがゆえのことです。
物質代謝の制約を受けない世界、物質代謝の法則、秩序に支配され
ていない世界においては「ドラマチック」「ロマンチック」が日常的、持続的
に成立しうるという理屈になります。
そのような世界とは、人間の精神生活の世界なのではないでしょうか。