2005年2月4日
前回披露した「人間=おたまじゃくし(音符)論」を拡張してみます。
もし、おたまじゃくしがその構成要素である音楽について、こうであるべ
き、こうでなければならないという定められた曲があったとします。
そうしますと、ある役割をその曲において分担することを期待されてい
るおたまじゃくしがその役割を果たさないことは「正しくないこと」「悪であ
ること」となってしまいます。
また、おたまじゃくしがメロディー、リズム、和音を知り、曲全体を知り、
その結果、他のおたまじゃくしに働きかけてそれを変えようとすることも
「正しくないこと」「悪であること」になってしまいます。
一方、もし、たくさんのおたまじゃくしがお互いにそのような働きかけを
続けていくと、最終的にはひとつの曲に落ち着くと見通されていたとしま
す。
そうしますと、おたまじゃくしは最終的に落ち着くことになる曲に至るま
での過去から続いてきた経過の一過程を果たしているだけであって、お
たまじゃくしの曲を変えたいという望みがおたまじゃくし独自の望みであ
るというのは幻想であり、過去に制約されたものでしかないことになって
しまいます。
この2つのケースにおいて、前者ではおたまじゃくしに自由はありませ
んし、後者でも真の意味での自由ではありません。前者は宗教的論理
のケースであり、後者は科学的論理のケースだと考えられます。
さて、この2つのケースのどちらにも人間という存在(もしかすると生命
一般)は当たらないのだと西田哲学が主張しているのではないかという
気がしています。
西田幾太郎の哲学は参考書によっても私にはチンプンカンプンなので
すが、一時期一世を風靡していたのであり、最近また見直されているら
しいのです。
その西田哲学では、むずかしくて分からない「行為的直観」とか「絶対
矛盾的自己同一」という言葉によって、そんな主張をしているような気が
するのです。
檜垣立哉著「西田幾太郎の生命哲学」(講談社現代新書)をつまみ食
い的に、かつ自分なりの《注》を付けつつ、引用すると次のとおりです。
「 『個物』(《注》この際人間としておきましょう。)は、『現在』があるという
こと以外の何か(『過去』からの因果性(《注》2つのケースのうちの後者、
科学的論理の世界)、『未来』からの目的性(《注》2つのケースのうちの
前者、宗教的論理の世界))によって規定されきってしまうことはない。
『現在』の『個物』は、たしかに一面では因果によって束縛され、一面では
目的によって拘束されてもいるだろう。規定されているから、それはある
種の『形』をもつものとして現出するものでもあるだろう。
しかし『個物』は、無限の過去がそこに入り込み、無限の未来もそこに
展望しうるような断絶をはらむものとして、いつも『現在』でありながら(《
注》おたまじゃくしとしてある曲の中で役割を果たしながら)、『現在』であ
ることを溢れていく(《注》曲を変えようと望み、そのように働いていく)。
実在するのは、この『現在』である。それ(《注》『個物』)は、世界を映し
ながら、自らを創造しつづけるものなのである。」