2005年1月28日
「人間=おたまじゃくし論」というのを考えました。
おたまじゃくしといっても蛙の子のおたまじゃくしではありませんし、
精子のことでもありません。ここでいうおたまじゃくしとは音符のこと
です。
人間を何らかの音程の、何らかの長さの、何らかの音色を示すお
たまじゃくしと考えます。
そのおたまじゃくしは、他の音程、長さ、音色を持つ数多くのおたま
じゃくしと協働して、何らかのメロディ、何らかのリズム、何らかの和
音を構成し、何らかの曲となることが予定され、期待されています。
この場合、曲の数は必ずしも1つと考えることはなく、複数の曲のこ
ともあるでしょう。
このおたまじゃくしは、しばらくの間、予定され、期待された役割を
果たして音楽を奏でることになります。
さて、ここでとどまるのであれば、それがどんなに美しい音楽であっ
ても、人間=おたまじゃくしの運命は、予定され、期待されたままとな
り、宿命論となってしまいます。
しかし、人間=おたまじゃくしは特別な音符です。
他のおたまじゃくしと協働しながら、自分の役割を果たしているうち
に、当初は自分が属している1小節を知ることに始まり、1曲全体を
知り、更に音楽には様々なジャンルがあって自分が属している曲は
どのジャンルの曲なのかを知るようになります。おたまじゃくしによっ
ては音楽以外の芸術があることまで知るに至ります。
そして、その知る程度に応じて、小節のメロディ、リズム、和音を変
えたいと望み、曲全体を変えたいと望み、さらにジャンルを超えた曲
になろうと望み、実際に他のおたまじゃくしに働きかけてそれを実現
するよう活動するようになります。(自分の属している曲があまりにも
美しいので、変わることをまったく望まないおたまじゃくしもありえます
が‥‥)
作曲された曲の中の微小な要素でしかなかったおたまじゃくしが、
ついには作曲家になっていく、人間とはそういう特殊なおたまじゃくし
なのです。