2010年10月14日(出来たて)
ある映画、演劇、文学、絵画、音楽を好み、あるものは好まない、あるものには興味も関心もない、そういうことはふつうの、当たり前のことです。
それを人それぞれの趣味の違いなどというわけですが、その趣味の違いとはいったい何なのでしょうか?
ある人にとっては何の感興も催さない平凡な演劇が、ある人にとっては感涙にむせぶものであり、ある人にとってはちんぷんかんぷんの絵画が、ある人にとっては茫然とその前に立ち尽くすほどの衝撃である、こういうことはよく聞くことです。
以下は、このことを考えるものですが、すべての芸術を相対化する考え方であり、おもしろくもおかしくもないとの批判は必至です。
しかし、「何の感興も催さない平凡な演劇」「ちんぷんかんぷんの絵画」をすべてひっくるめて芸術とする議論ですから、批判があるのは問題設定時から不可避であり、覚悟の上のことです。
さて、何の変哲もない、繰り返しだけのものとしか感じられず、人々に倦まれている「日常」に対して、「非日常性」をもたらすもの、「詩情」を提供するもの、その「日常性」を攻撃するもの、その「日常性」にショックを与えるもの、芸術とはそういうものであるということができます。
芸術家は、彼らが「日常」と見なす「人々の日常」に対して「非日常性」「詩情」「攻撃」「ショック」を提供・発信してきます。
その対象である「人々の日常」とは、日常生活そのものを意味するだけでなく、人々が一応の安住をしている人間観、社会観、宇宙観などまでをも含むものです。
「人々の日常」は、言うまでもなく、人それぞれに実態的に異なるものですし、その実態を人々がどのように受け止めているかによっても違います。
そして、何を「人々の日常」と見なすかはそれぞれの芸術家によって違ってきます。
芸術的感興、芸術の衝撃というものは、このような発信・受信双方における複雑なすれ違い関係の中で、芸術家の働きかけが「人々の日常」に命中し、芸術家の働きかけが「日常性」に倦んでいる人々の同調、共鳴を呼ぶということでしょう。
更に、芸術家が媒介者の役割を担って、「日常性」に倦み、「日常性」への外からの働きかけを求めている人々同士の間の同調、共鳴というもう一つの感動をもたらすことにもつながります。
その同調、共鳴が一定の人々の範囲に限られることを、それを軽めに言って「趣味の一致」などということになります。