2005年3月1日
我々の社会の基礎をなしてる思想に「人間は個人として自立して
いる存在である」という考え方が共通にあると思われます。
学校で習った世界史のレベルで思いつくままに上げて見ます。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、いろいろな現象を観察し、
その結果から法則を導き出す主体としての個人を見出し、近代科
学の基礎となりました。
絶対王制を合理化したホッブスの人間の自然状態の認識「万人
の万人に対する戦い」は、その後そのような自然状態を解消する
ための「社会契約論」に至り、民主主義制度の基礎となっています
が、そこでも契約を結ぶ主体としての自立した個人の存在が前提
となっています。
経済学では、利己主義が社会の生産力発展につながるというア
ダム・スミスの利己心の肯定がありますが、その利己心を発揮す
る主体としての自立した個人が前提となっています。
このような諸思想は、中世ヨーロッパにおける「神の支配」からル
ネッサンスに始まる「人間の復権」へという流れの中で生まれてき
たものであり、歴史的必然性のあったものでしょう。
しかしながら、本来、人間は個人として自立できる存在ではなく、
神なき時代においては、他者によって救済され、また他者を救済す
るという人間同士の相互関係によって、ようやくその存在意義を見
出すことができるかもしれないという不確かな存在で、到底個人で
自立できるというような状態にはありません。
このような人間の現実を離れた個人自立思想は‥‥人々を自立
の方向に導いて一定のメリットを発揮したものの‥‥その後の思想
の一人歩きによって、本来不可能な自立を個人に要求し、本来の人
間の相互依存関係に冷酷さをもたらし、人々を孤独で救いのない世
界にさまよわせる結果を呼んでいると考えられます。