2005年9月2日

 岩波新書「ディアスポラ紀行」で著者徐京植は次のように
書いています。

「 近代ナショナリズムが造り出した「国民」という観念、国土
や血縁の連続性、言語や文化の固有性といった幻想によっ
て構成されるこの手ごわい観念は、人間の死へのおそれ、
不死の欲望によって支えられている。自らの財産、血統、文
化を永久に残したいという欲望がナショナリズムの土台にあ
る。
 この観念に打ち勝つには、結局、その宿命性と生の偶然性
をありのままに受け入れる以外にない。自分はたまたま生ま
れ、たまたま死ぬのだ、ひとりで死ぬ、死んだあとは無だ‥‥
そういう考えに立つことができるかどうかに、ナショナリズムへ
の眩暈から立ち直ることができるかどうかは、かかっている。
 しかし、それは今のところ、人間という存在にとってひどく困
難なことのようだ。」

 そうでしょうか?

 死の宿命性と生の偶然性を認めたくないという性向が人間
にあるということはそのとおりでしょう。
 しかし、科学の発展により、人類の滅亡の宿命性と人類発
生の偶然性は明らかになっており、それは地球滅亡の宿命
性と地球発生の偶然性、更に宇宙滅亡の宿命性と宇宙発生
の偶然性という事実に支えられています。
 人間がいかなる性向をもっていようと、その性向がもたらす
欲望を許容しない科学的真実が明らかになっているのです。

 したがって、今や人間という存在にとって死の宿命性と生の
偶然性はありのままに受け入れる以外にない状況になってい
るのであり、その結果ナショナリズムの眩暈から人間が立ち
直ることができる基礎はすでに準備されているのです。

 ナショナリズムはヒューマニズムと両立できないのみならず
、ナショナリズムはサイエンスとも共存できないのです。