2005年10月24日 

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」

 このあまりにも有名な正岡子規の俳句は次のように読めるのではないか、そのことによってこの俳句の意味がまったく違ったものになるのではないか、そんなことに気づきました。

 明治28年10月末に子規は生涯最後の旅として奈良を訪問していますが、その日数は3日間にすぎません。

 そして、そのころ子規の結核は脊髄カリエスとなり、腰痛で歩行困難であり、奈良を歩き回るのはかなり無理があったのではないかと思われます。

 そうだとすれば、子規は法隆寺を期待しつつも訪問できず、その無念さがこの句を作った背景だったとの推測が生じてきます。

 すなわち、この俳句は、旅館の一室で柿を食べながら、行くことのできない法隆寺を思う、という俳句ではないかということです。

 考証家がすでに調べ上げているとは思いますが‥‥