2005年11月5日

 「実存主義」というのが一世風靡していたのは1950年代、60年代だったのだと思います。

 それがいったい何であったのか、どれだけの影響を社会に与え、どのように現代に至っているのか、そういう大きなことは本稿の課題ではありません。

 「実存主義」の「実存」というのが「現実存在」という言葉の省略だということは知識として知っていました。

 しかし、それに「主義」が付くということはどういうことなのか、言葉の上でのこととして、さっぱりわかりませんでした。

 それについて最近思いついたことを報告しておきたいと思います。

 「現実存在」というのは人間のことです。そして人間の現実的なあり方のことです。

 「現実存在」の反対の言葉をつくってみれば「現実不存在」ということになります。

 「現実不存在」ですから神のこととも考えられますし、人間のあり方についての非現実的仮定とも考えられます。

 「実存主義」以前、人間の世界を理解するためには、その世界の外にいったん出て、世界から超越的な立場に立って、純粋客観的な理性となって、世界を捉えるという方法が、意識的にあるいは無意識的に採用されていました。

 要するに「現実不存在」の立場から世界を捉えるという方法が採用されていたのです。

 しかし、世界の内に生まれ育って、歴史と文化を背負って生活している人間に、それがたとえ学問上に限定された立場だとしても、その立場に立つことは不可能であろう、純粋客観的な立場に立っているというのは反省してみれば幻想であろう、ということが気づかれるようになりました。

 そして、「現実存在」という立場、世界の内部に存在しているという立場、絶対的・超越的立場には立てない立場、そのことを十分自覚した上で世界を捉えなおしていこうという考え方が生まれました。

 かくして「現実存在」に「主義」がつくことになって「実存主義」となったのです。

(大学卒業以来消息不明だった友人が最近発見されました。彼は哲学をやっていました。その記念です。)