2006年2月28日
文学の1ジャンルとしての「詩」については、他のジャンルである「小説」や「評論」などと区別するため、それなりの定義があるでしょう。
それとは違う概念で、かつ「詩」という言葉が導き出した言葉に「詩情」という言葉があります。
この「詩情」とは何でしょうか?
辞書には、詩的な味わい、詩を作りたくなる気持ち、とありましたが、詩的な味わいとは何か、詩を作りたくなる気持ちとはどういう気持ちか、疑問は続きます。
こんなことを考えたのは、禅の世界に「詩禅一致」という言葉があることを知ったこと、また鈴木大拙「東洋的な見方」(岩波文庫)を読んでいて次のような下りがあったことがきっかけです。
「 ある意味で、東洋的考え方というのは、詩的にいうので、論理的思惟でない。禅は詩
である。人生そのものの詩である。真実は『理』法でない、『詩』的である。」
「 この有限の世界に居て、無限を見るだけの創造的想像力を持つようにしなくてはなら ぬ。この種の想像力を、自分は、詩といって居る。この詩がなくては、散文的きわまるこの生活を、人間として送ることは不可能だ。」
「 ノーベル賞を貰ったフランスの詩人ベルスがそれを受けたときの言葉の中に『現代人の悩みは、有限と無限との隔たりが、日に増し遠ざかり行くところにあり』というのがある。詩人だけに、よくこの辺りの消息を道破して居る。一顧するべきである。」
「 この人(シモーヌ・ヴェイユ:夭折したフランスの女性哲学者)がいっているのに、労働者に必要なものは、詩だと、こういうんですね。労働者に必要なものは詩である、と。労働者にはパンも必要だし、バターも必要だろうが、それよりも詩が、英語でいうポエジーが必要だと、こういっておるですね。」
「 労働者が手を動かし、足を動かすということと関係づけて、そこにポエジーを見ることができたら、まあ、労働者は助かるですね。これを日本にあてて考えてみると、俳句というものがある。」
「 詩情というか、その詩を見るというのが宗教です。」
さて、私が考えた「詩情」の定義は「 詩情とは、ものごとあるいは状況について、他者一般あるいは自己通常とは違う観点に立ち、そのことによって得る心情である。」
というものです。
このように定義してみますと、ロシア・フォルマリスムという文学理論にあるという「異化」というのも「詩情」に関係があるような気がしてきます。