2006年4月19日
「愛国心」の取り扱いについて自民党と公明党の調整が終わり、今国会に教育基本法改正案が提案されるかどうかがニュースの焦点になっています。自民党と公明党の調整案は、「愛国心」という言葉は使わず、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土
を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という表現になっています。統治機構としての国というニュアンスを薄め、伝統・文化の基礎としての国というニュアンスを強め、「愛国心」の問題についての対立を緩和することを狙いとしています。
この改正文によって具体的にどのような教育が子供たちに対して行われるようになるのかということが、実質的問題です。この緩和された法律表現によっても国家主義的教育が強化されることになるという心配は払拭しがたいというのが実情だと思われます。
さて、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土」という表現が採用されることに伴い、必然的に「我が国の伝統・文化」とは何かということが改めて注目されることになってきます。そして、このことについても、「愛国心」と同様に、政治的立場によって大きな理解の違いがあることを指摘しておかなければなりません。
その理解の違いのはなはだしいことの象徴が「大和魂」と「武士道」です。
「武士道」という言葉は、江戸時代に武士の心得として書かれた書物「葉隠」による用語だと思われます。その「葉隠」における「武士道とは死ぬことと見つけたり」という過激な文言によって、「武士道」は忠孝を重んじる、献身的で、勇猛果敢で、いさぎよい精神のものとイメージされています。しかし、「葉隠」は、「恋」(「葉隠」においては特に衆道(=ホモセクシュアリティ)における「恋」)と「主君への忠誠」との間に生じる価値的葛藤について述べたものであるという評価があって、単純な勇ましさ、いさぎよさの強調とは大いに異なる可能性があり、従って「葉隠」における「武士道」についてより陰影を帯びた複雑な内容のものと捉える必要が考えられます。
また「大和魂」についても、「武士道」と同様に一般では勇猛でいさぎよい精神といった意味で捉えられています。しかし、それはその言葉の本来の原義を無視したもので、軍国主義の時代に課された派生的意味であるという批判があるのです。そして、そこでは「大和魂」の本来の意味は、外来の技術・知識ではない日本の自然観、宇宙観、時間意識、美意識等の心情全般について述べられた言葉ではないかとされており、勇ましさ、いさぎよさといった狭い範囲の心情を指す言葉ではないとされているのです。
「伝統・文化」についての共通理解がなければ、それらを育むとされる国と郷土のいかなる側面を評価するのかという共通理解も生まれません。同床異夢的な教育基本法改正によって新しい教育の展開が可能なのかどうか、はなはだ疑問とせざるをえないところです。