2006年7月4日
歴史的に未曾有の、世界的な残虐と悲惨の中で、個人の極めて限られた短い時間のうちに贅沢を楽しむのが人生だと刹那的、享楽的生活を強要されるというのが現代の矛盾的、病理的状況です。この状況を合理的に、整合的に、ひとまとめにして、冷静な個人が受容するのは極めて困難であり、無防備でそこにさらされた場合に人々が精神分裂的ダメージを受けるのは必然です。
そして、意識的にしろ無意識的にしろ、その精神分裂的ダメージを回避するために各人ごとに何らかの対応がとられるのであり、どんなにそれが個人的で、非社会的な対応であっても、社会的な状況への対応である以上、それをその人の社会的なスタンス、社会的なポーズということができるでしょう。
そんな観点に立った時、次のような永井荷風の選択は、それが極めて意識的であったことを示していて印象的です。
現在、社会の各界各層に広く散っていると思われるインテリゲンチャー諸氏は自分たちの選択について多く語っていないように見えますが、その社会的スタンス、ポーズは(外見的には永井荷風型も散見されますが)果たして意識的選択なのでしょうか?無意識的選択なのでしょうか?それとも無防備のまま精神分裂的ダメージを受けている姿なのでしょうか?
*
「明治44年(1911年)慶應義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら折折市谷の通で囚人馬車が5,6台も引続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云ふに云はれない厭な心持のした事はなかった。(注:大逆事件のことと思われる。)わたしは文学者たる以上この思想問題について黙してゐてはならない。小説家ゾラはドレフュース事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も云はなかった。私は何となく良心の苦痛に堪へられぬやうな気がした。わたしは自ら文学者たることについて甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんなことは下民の与り知った事ではない、‥‥否とやかく申すのは却て畏多い事だと、すまして春本や春画をかいてゐたその瞬間の胸中をば呆れるよりは寧ろ尊敬しようと思立ったのである。」(永井荷風「花火」。恥ずかしながら孫引きです。)