2010年8月3日(出来たて)


 西部邁著「小沢一郎は背広を着たゴロツキである~私の政治家見験録」という刺激的な書名の本を読みました。

 そこで西部は小沢のみならず、中曽根、小泉等々有名政治家の面々を鋭い刃で斬り裁いています。

 それはそれで読者に爽快感を与えてくれるのであり、確信犯的に過激な書名としていることにも表われているように、政治家を俎上に上げているのは西部と出版社の共同販売戦略といえるでしょう。


 その販売戦略を離れて、西部が真に訴えたいことは何かと考えて見ますと、表面的には過激な言辞が飛び交っているものの、極めて常識的な教育的内容であることが分かります。

 それは世の中の「民主主義」についての理解は間違っていますよ、ということなのです。

 すなわち、「民主主義」とは「選挙権を通じて政治的意思の最終的決定権を究極的には国民が有していること」及び「決定に当たっては多数決原理によること」というのが一般の理解ですが、それは「民主主義」の中途半端な理解であるということなのです。


 この中途半端な理解によれば、国民の意思するところによってそれをそのままで政策決定を行えばよいということにもなります。

 この考えに基づけば、例えばある課題について世論調査を行い、世論調査の結果によって物事を決めるという直接民主主義的手法を採用すればいいということにもなります。

 (最近の頻繁な世論調査、及びその結果をもって政策決定を迫るという風潮は、この「民主主義」の中途半端な理解による現象です。)


 しかし、「民主主義」には国民が参政権を行使するに当たっての重要な前提があるのです。

 それは、国政に参与する者は意思決定に当たり検討熟慮するものであり、意見の相違には考えに不十分性をはらんでいる可能性を認め、その不十分性を克服するために相互に説得し合うものであるという前提です。(投票、採決はその後のことなのです。)


 この前提を充たすために、すなわち国民の検討熟慮、そして相互の説得を援助し、可能ならしめるために、政治の専門家たる政治家が存在し、間接民主主義が採用されているのであり、補完するために各種マスコミ・言論機関があるのです。

 

我が国の「民主主義」の現状ではこの前提が欠如しており、中途半端な「民主主義」の理解に基づいて「大衆」に依拠する政治を展開している政治家、マスコミ及びそれに甘んじている国民大衆に対して、西部は、それは「衆愚政治」というものではないかと批判攻撃しているのです。

 「民主主義」は、国民に主権がある、すなわち政治的意思の最終決定権があるとしていますが、一方で国民を指導、説得する立場の人間の存在を前提にしているのであり、政治家こそその立場にあるにもかかわらず、政治家たちがその任務を全うしないこと、更には政治家の任務がそのようなことであることについてまったく無自覚な政治家が多数を占めるようになっていることに対して、言論人としての立場から国民を指導、説得する任務の自覚ある西部は、政治家と同様の立場にある者として、特に厳しく政治家に矛先を向けているのです。


 我が国は「民主主義」を採用しているにもかかわらず、「民主主義」とは何かということについて中途半端な教育しかなされていないと思われます。

 西部は過激言論人としての自らのキャラクターを活用してその不十分性を懸命に補おうとしているのであり、そこまでの態度においては、誠に立派な態度であると評価されなければなりません。


 なお、そこまでの態度においてはと限定を付けたのは、西部の保守的、右翼的な政治的主張に至ると到底ついていけないからですが、考えてみると、西部のそのような政治的主張は、西部の教育者的資質が採用した「過激であるほどファンダメンタルな思考を誘導することになる」という教育的内容をたっぷり含んだ政治的主張ではないかという推定も浮かんできます。