2006年10月2日

 武田泰淳「政治家の文章」(岩波新書)によれば、戦前の陸軍軍人で政治家の宇垣一成は、「軍部の対支研究は真剣味であり、従って深刻、且つ透徹して居る点が多い。‥‥外務畑のものは概して浅薄でありまた幼稚である。」としつつ、その日記に次のような中国人観を書き残しているそうです。

 すなわち「隴を得て蜀を望む(やさしくすればつけあがる)通性」、「浮薄な個人主義な利己一点張りな事大思想な而かも万事に上すべりな性情」「薄っぺらの才子」。

 武田泰淳がこの本を書いたのは1960年以前であり、その時代もあるのでしょう、泰淳は宇垣がこのようなことを書いているということの紹介にとどめており、それをもって宇垣の中国人観のナンセンスの指摘として十分と判断していたようです。

 しかしながら、最近では日中韓それぞれでのナショナリズムの高まりが見られ、それぞれの民族性を互いに蔑むような書物も多数出版されるようになっており、民族性非難というようなことについて泰淳のような淡白な取り扱いでは不十分な時代になっているような気がします。

 さて、日中韓に限らず世界の諸民族は弱肉強食の国際関係の中で虚虚実実の駆け引きによって必死の自己保存を図ってきたのが歴史的現実です。真正直で純粋無垢というのは国際関係の中ではバカというのと同義であり、国際関係の辞書に聖人君子という言葉はなかったと考えなければなりません。諸民族と争って民族の利益を図っていこうとするのはナショナリズムの観点から当たり前のことでした。

 そのような過去の性向について純粋に道徳的観点から非難を浴びせることは、それが事実に反していない以上、実に簡単なことです。しかし、そのような道徳的非難には二つの問題があることを忘れてはなりません。

 1つは、非難されるべき性向は、まさに争いの場において示されたものであり、その民族のすべてを決して表わしているものではないということであり、一民族が有する多様な性格の中の一面を表わしているにすぎないということです。

 もう1つは、争いの場に置かれれば、先方だけではなく、こちらもまた同様の性向を示す者であり、こちらが先方に道徳的非難を浴びせる資格は、先方がこちらを非難する資格がないのと同様に、ないということです。

 先方が悪であり、こちらが善であるというような非現実的で一方的な図式では、そもそも外交は失敗しているのであり、外交は成立しないのです。

 県民性などというものについても、いろいろ論じられているところですが、一種の娯楽として扱われているのであれば無害ではありますが、県民性議論の根拠不確かな非科学性は十分自覚しておかないと無益有害の議論に一挙に陥る危険があると思います。