2010年7月5日(出来たて)

 「空」とか「虚」に支配されている宇宙法則=「道」という考え方は、人間に何をもたらすでしょうか?
 「老子」では宇宙、自然に対する印象を「玄」「妙」「大」という言葉で表わしています。  

言いようのない巨大さ、奥深さ、神秘さといった感じでしょうか。
そのような人間大をはるかに超えたものとして宇宙や自然を捉えることから生じてくる

ものは、宇宙や自然に対しての人間の徹底的無力感=宿命論、運命論ではないかと思われます。  

「ホーキング、宇宙を語る」で「ビッグ・バン理論」を世界に広めた車椅子の理論物理学者ホーキング博士は、かつて「ビッグ・バン」の発見による彼の人間観を質問されて、人類という存在に「pity(あわれみ、同情)」を感じると 答えていました。(「ビッグ・バン理論」は「宇宙の終わり」、それに先立つ「人類の滅亡」を確定させたのです。)

 「有」「実」が対象であれば、人間が関与し、働きかける余地があるのかもしれません。
 しかし、「空」や「虚」では人間が手の出しようがありません。
 
 宇宙や自然に対して人間はまったく無力であるという現実に直面して、人は「無為の立場に身をおく」「万物の自生にまかせて作為を加えず」(第2章)という選択をするほかなくなります。
 「最上の善なるあり方は水のようなものだ(上善水の若し)」(第8章)という主張となり、「無為」「虚心」の奨めとなり、受動性の象徴たる「赤子」や「女性」の理想化に至るのです。
 無力という意識の結果が、理の当然として、無駄なあがきの抑制、無欲・謙虚・素朴の奨めとなります。
 

そして、「老子」の理詰めは、中途半端な妥協で止まらず、極端に至るので、無欲・謙虚といった穏やかな対応にとどまることなく、我々にとって興味深い、現代社会へのアンチ・テーゼを提供してくれることになります。
 次回に続きます。