2007年4月4日
この4月【2007年】に入ってきた新規採用職員たちを見て、年齢とか体格以外で、彼らと我々とはいったいどこが違うのだろうかと考えてみました。
2点、大きな違いに気がつきました。
第1点は「社会主義」との関係、あるいは「資本主義」との関係です。我々の時代には現実に社会主義国家があり、国際関係は冷戦という2極対立構造であり、国内的には野党として社会党、共産党という社会主義政党が与党自民党と対立していました。理念としての社会主義も大きな影響力を維持していました。したがって、「社会主義」に対していかなる立場をとるか、いかなる距離をとるかが、賛否にかかわらず、我々の共通の課題でした。そして、「社会主義」を検討の課題とすることは、「社会主義」が批判の対象としている「資本主義」を必然的に検討の対象とすることになりました。その結果、我々は我々がその真っ只中にいる「資本主義」を対象化、客観化、相対化して評価する観点を獲得することができました。
新規採用職員たちにとっては「資本主義」が絶対的存在であり、我々のような幸運に恵まれてはいないと思われます。
第2点は「大衆」との関係、というよりは「大衆」としての意識です。我々の時代には「庶民感覚」「大衆意識」とかいうものが大切なものとされ、「エリート意識」「知識人の自覚」とかは唾棄されるべきものという社会的雰囲気が強く存在していました。その象徴が我々の中における高倉健のやくざ映画、渥美清の「フーテンの寅」の人気でした。しかし、このことは我々の時代において我々が自分たちを「庶民」「大衆」とは意識していなかったことを明らかに示しています。すなわち、本来の「庶民」「大衆」は、庶民感覚を持とうとしたり、大衆意識に近づこうなどとはするはずがありません。そもそも庶民、大衆である以上その必要はないからです。我々の時代の我々は多かれ少なかれ、実はエリート意識、知識人の自覚を持ち続けていたのです。
時代は進み、「大衆」を顧客(=神様)とするマスメディアの飛躍的発展、低成長経済への移行による民間活力重視路線の強まり等を背景に、反エリート、反知識人の社会的雰囲気は一層強まり、ついにエリート、知識人は社会的存在価値の認められない存在に貶められるに至ってしまいました。このような社会で育った新規採用職員たちにはいささかのエリート意識、知識人の自覚が生まれるはずはなく、彼らは自然体で自らを「大衆」として意識していると思われます。