2007年8月26日

 私は「人文的教養主義」なるものは知りません。その世界に生きている人間ではありません。しかし、その言葉にとても大きな魅力を感じる人間です。四方田犬彦著「先生とわたし」(新潮社)を読むと、その「人文的教養主義」がどうやらその世界で死滅しつつあるようなのです。

 この本は著者四方田犬彦が東大教養学部英語科において師弟関係を結んだ師由良君美の栄光と挫折を弟子の立場から書いたものです。その最終に近い部分にこうあります。

「私見するに、由良君美という存在の再検討は、かつては自明とされていた古典的教養が凋落の一途を辿り、もはやアナクロニズムと同義語と化してしまった現在、もう一度人文的教養の再統合を考えるためのモデルを創出しなければならない者にとって、小さからぬ意味をもっているのではないだろうか。わたしはゼミの後で由良君美の研究室に成立していた、親密で真剣な解釈共同体を懐かしく思うが、ノスタルジアを超えて、かかる共同体の再構築のために腐心しなければならないと、今では真剣に考えるようになっている。」

 宇宙自然の構造がわかっていないと目標に向けてロケットを飛ばすことはできません。地球上の自然の小さな有益な改変を行うこともできません。しかし、人間の活動は、宇宙の構造がわかっていなかろうと、社会の構造がわかっていなかろうと、人間の行動原理、精神活動原理がわかっていなかろうと、これまでも、これからも、多様多彩多面的に展開されていくでしょう。ただ、何もわからないまま闇雲にロケットを打ち上げていくようなやり方は、人間活動の自然や社会に対する破壊力が格段に高まっている現代においては極めて危険だと思われます。それは核エネルギーの世界、エコロジーの世界のみならず、人間の精神活動の分野においても深刻だと思われます。

 「人文的教養主義」は、こういう中で合理的精神により人間の精神活動の全体的構造及びその運動を明らかにしていこうという方向性をもった知的営みなのではないかと私には思われ、それが「凋落」し、「アナクロニズム」と化してしまっては困ると思います。社会のどこかでしっかりとそのような営みがなされ、人間全体への視点を確保していなくては困ると思います。流行らなくなったからといって合理的精神による探求を放棄しては困ると思います。人間の精神活動による意図せざる人間社会の破壊は阻止されなければならないからです。

 そして「人文的教養主義」の立場に立って人間研究に従事することは、具体的に好ましい人間像を生み出すことにもなるのですが、その具体的姿は本書「先生とわたし」に譲ることにしましょう。