2010年5月10日(出来たて)
自民・民主の間を取り持つことをもって自分を龍馬に擬するという軽薄、オッチョコチョイ政治家がここのところ何人か登場しました。
軽薄、オッチョコチョイなのではなく、龍馬ブームに乗って人気を得ようというズルガシコイ・タイプの政治家なのかもしれません。
(龍馬ブームを作ろうとした動きそのものも、かなりズルガシっぽく臭います。)
いずれにしろ、地下の龍馬はそれら政治家のレベルの低さを嘆いているに違いありません。
龍馬が取り持とうとした薩長、更に幕府の間の対立とは、現代で言えばイスラムとアメリカの間、加えて北朝鮮、イラン、ミャンマーといった国々を絡めた対立です。
龍馬の当時のチャレンジは、現代でこれらの国々の間を取り持つことにあたる・極めて困難なチャレンジだったのです。
今、龍馬がいたら、民主・自民の勢力争いなど、コップの中のそよ風のような取るに足らない現象に過ぎなかったに違いありません。
龍馬はそんなコップの中に惑わされず、大局に立ったから偉かったのです。
テレビの「龍馬伝」を観て「にわかナショナリスト」になるのは、龍馬の教訓を教訓としえず、「アナクロ・ナショナリスト」となるにすぎません。
龍馬の時代は「ナショナリズム」が対立を超えた高次元の理念だったのですが、現代に「ナショナリズム」を対立解消の手段として使おうとする政治家がいたとすれば、その次元の低さはあまりにも危険で、即刻退場願わなければなりません。
「ナショナリズム」を克服し、「ナショナリズム」を超えた高次元の理念をつかまえ、うち立てることこそ、今求められている課題なのです。
龍馬教訓を矮小化して捉えてしまった「にわかナショナリスト」「アナクロ・ナショナリスト」は、今何処かにいる・現代の龍馬の妨害者となっていることに気づかなければなりません。