2008年1月4日
吉田元首相(在職1946.5~47.5、1948.10~54.12)は当時次のような趣旨のことを語っています。
「東南アジアの民族は植物状態であり、経済発展はまったく期待できない。」
百年一日のごとき生活に満足し、勤労意欲に欠けているその生活様式では、近代的労働者たりえないということを言いたかったのだと思われます。
日本の労働者の生産性を100とすれば、東南アジアの労働者の生産性は0に近いという認識だったということでしょう。
ソビエト崩壊でロシアに資本主義的工場が稼動し始めたとき、私有財産制の観念の薄いロシア労働者は会社の財産を罪の意識なく持ち帰ってしまっていたという逸話があります。
近代的労働者に必要な規律意識が醸成されていなかったということです。
この場合では日本の労働者の生産性を100とすれば、ロシア労働者の生産性にはプラスがつかない事態であったということでしょう。
数十年前まで、このような近代的労働者たりえない人々が、開発途上国の国々、そしてロシア、中国、東ヨーロッパなどの社会主義圏に大量に存在していたのです。
その人々が、あっという間に0の状態から10、20、30と生産性を上げてきたのです。近代的労働者として育ってきたのです。
一方、日本の労働者の生産性の向上は、収穫逓減の法則によって穏やかなものでしかありえません。
それまで圧倒的な生産性の高さによって日本の労働者が享受してきた賃金水準が、生産性を上げて追いついてきた他の国々の労働者との比較において、許容されがたくなってきたのです。
生産性格差に応じた賃金水準でなければ、高い賃金水準の国に資本は投下されず、むしろ逃避していきます。
それがここ20年ぐらいの日本経済の苦境の根本的原因です。
開発途上国、元社会主義諸国に対して持っていた生産性の圧倒的比較優位を日本は失ったのです。そして、それは日本の労働者の質低下というよりは、他国労働者においつかれてきたという要素のほうが大きいのです(収穫逓減カーブの位置取りの差)。
したがって、生産性の圧倒的優位というラッキーな状態の復活は、言うはたやすいことですが、まったく幻想でしかありません。
この根本的認識がない経済の処方箋はいずれのものも有効だとは思われません。