2008年4月15日

 論語・陽貨第17は次のように言っています。

「子曰く、飽食終日、心を用うる所無きは難いかな。博弈なる者有らずや。之を為すは猶已むに賢れり。」

 「博」もばくち、「弈(エキ)」もばくち、それで解釈しますと、「先生が言われました。1日中、何も心配することもなく、食べるだけで過ごすというようなことは、なかなか難しいことだ。『賭博』というものがあるが、あれはやらないよりはやったほうがいい。」こうなりますと、賭博に厳しいといわれる儒教ですが、そうではなくて、むしろ賭博は奨励されているということになります。「それみろ、孔子様だって」と世のギャンブルファンが勢いづきそうです。しかし、残念ながら「博」「弈」がばくちの意味になったのは後世になってからのこと、当初「博」はすごろく、「弈」は囲碁の意味だったのが転じてばくちの意味になったのであって、これを孔子の賭博奨励と読むのは、やや無理というのが正しいようです。