2008年5月19日
上映中止要求などがあって話題になった映画「靖国」を渋谷「シネマ・アンジェリカ」で観ました。表現の自由の立場から上映実現を喜んでいますが、内容についての厳しい評価を以下、お伝えしたいと思います。
靖国神社をめぐる問題は、今回の上映問題の以前から大きな社会問題、政治問題、外交問題として、厳然と存在しています。以前からあったこの問題に対して、いかなる態度をとるのか、いかなるスタンスをとるのか、それに対する回答なくして作品の意味はないと断じていいでしょう。もちろん、問題に対するニュートラルな立場を否定するものではありません。それもひとつの回答です。ニュートラルなスタンスを含めて、この問題に対する自分の態度、スタンスを他者に説明するものが作品であるべきであり、できるだけうまく説明しようという意欲がいい作品につながるのだと思います。場合によっては、そのうまく説明しようという意欲によって、結果的に表現手段(文学か、絵画か、音楽か、映画か)が選択されることだってあると思います。、
このような観点に立ったとき、残念ながら映画「靖国」を高く評価をすることはできません。一部のネオコン政治家に問題視されることによって実力以上に大きく取り上げられることになり、私が観た時も映画館は満席でした。しかし、映画「靖国」は「靖国」をめぐる事象を雑然と平面的に並べただけのものにすぎません。
そもそも歴史性を深く帯びている問題を平面的に処理するのは無理であり、問題に対する態度、スタンスの決定は歴史への探求姿勢なくしては不可能です。その過程が不十分では態度、スタンスを説明しようというインセンティブが湧いてくるはずもありません。我々はいったい何を見せられているのか、ということになります。取り上げにくい問題を取り上げたという点において評価できますが、評価はそこにとどまるといわなければなりません。真面目なポーズというだけで社会的発言を評価することはできないのです。
映画館で配布されていたパンフレットでは、田原総一朗(ジャーナリスト)、土本典昭(記録映画作家)、森達也(映画監督/ドキュメンタリー作家)、鈴木邦男(一水会〈いわゆる右翼〉顧問)が映画「靖国」を大きく賞賛していますが、政治的ポーズか売名行為か、いずれにしろ、しっかりと映画を観た結果の賞賛とは思えません。すなわち、田原曰く「これほど靖国追及に勢力(ママ)を注ぎ込んだ映画はない。観るのは辛いが目を背けるわけには行かない。凄まじい作品である。」、そんなことはぜんぜんありません。土本曰く「既成の見方、アングルは排除され、初めてその日を見るように新しい。‥‥これは“考える映画”の秀作である」、そんなこともぜんぜんありません。森曰く「この国のもうひとつのアウトラインが、きっとあなたの中に形作られる。」、そんなこともありません。鈴木曰く「何も知らなかった自分が恥ずかしい。」、信じがたい政治思想指導者の自己否定です。同じく鈴木曰く「厳しいが、愛がある。これは『愛日映画』だ!」、この人は間違いなく映画を観ていません。