2008年10月9日(リーマン・ショック直後)



 金融が果たしている社会的役割は、淘汰されるべき産業、企業などを淘汰し、一方、発展すべき産業、企業を発展させるというところにあります。すなわち、淘汰されるべき産業、企業などに対しては、資金供給をストップすることによって、労働力を含めた資源の配分を受ける権利を剥奪し、それら産業、企業などを社会から退場させ、一方、発展すべき産業、企業に対しては、資金供給によって資源の配分を受ける権利を付与し、それら産業、企業の発展を促し、結果として新しい高度な産業構造を創出するというのが金融の役割です。

 そして、この社会的役割を金融が果たすに当たり、退場すべき産業、企業の選定及び資金供給がなされるべき産業、企業の選定には、政府その他の権力の介入があってはならず、自由なマーケットで形成される指標(金利、株価等々)を基準として自ずから選定されるのが最も合理的であると考えるのがいわゆる市場原理主義の立場です。(日本におけるこのような考え方の代表が小泉ブレーンの竹中平蔵氏でした。)

 サブプライム・ローン問題とは、以上の大前提として返済リスクがあることを看過し、マーケットが、高金利を指標としてアメリカ低所得者層の住宅取得に大量の資金供給をして、その返済不能という事態に直面したということであり、この高金利指標に目がくらんだのがアメリカ国内の金融機関にとどまらず、全世界の金融機関に及んでいたというのが今日の事態です。

 さて、発生した問題の大きさから、最も楽観的に見ても、これから少なくとも数年はかなり厳しい不況に全世界は耐えていかなければなりません。それはこれまでの金融バブル期に肥大化した産業構造をスリム化していく過程です。そして、不要の産業を淘汰し、産業構造をスリム化していくというこの過程は、言うまでもなく、再び金融が担わなければなりません。

 この過程は避けがたい過程です。そして、この過程の中で失業、倒産、貧困、家庭崩壊、地域崩壊等々人間的悲劇の全世界的大量発生が不可避です。

 金融機能がマヒしたので機能が回復するまで政府介入は許容するという立場も市場原理主義者の中に推測されますが、それは市場原理主義の理論的破綻でしょう。この場合にも政府介入をしないのが不要産業の淘汰のための最も適切かつ迅速な対応方法だというのが市場原理主義者の原則的立場のはずです。しかし、その対応方法の過激さは政府介入の場合と比較しようもないほどの大量の人間的悲劇を発生させることはまちがいありません。

 この場に及んでも市場原理主義者の人たちは自分たちの正当性を主張するでしょうか?主張されるとすれば、その正当性とは、具体的人間を視野の外に置いた、机上の数学的正当性ではないでしょうか?それは具体的人間をその対象とする社会科学の名に値するでしょうか?