2008年11月25日

 人間はただ生きているだけという生き方ができない特異な生物です。生きていることに意味を求め、その意味によって自己肯定感、自己正当感を得て、人間は生き続けることができます。 

 自己肯定感、自己正当感を得るにはいくつかの途があります。順不同で思いつくままにあげてみます。

1 自分の生き方が、「正義」に合致していると考えることです。

2 自分が、賢くて、「合理的」であると考えることです。

3 人に好かれていると考えることです。

4 他者の自己肯定感、自己正当感を間違っていると否定することです。

 いずれも、客観的に正しい必要はありません。自分をそのように感じることができればいいのです。これらの感じは、お金、権力、能力(知的能力、肉体的能力を問わず、社会的に評価される能力であればよい)によって獲得することができます。したがって、人々はお金、権力、能力を求めるのです。

 さて、社会はお金、権力、能力を構成員に平等に配分することはできません。しかし、自己肯定感、自己正当感のほうは、それを各人に配分しないと構成員は生き続けることができず、社会は崩壊してしまいます。そのため、どの社会もお金、権力、能力の配分の仕組みとは別の自己肯定感、自己正当感の配分装置を装備することになります。

 この自己肯定感、自己正当感の配分装置の機能を果たしてきたひとつが身分制です。身分制は、身分ごとに異なる自己肯定感、自己正当感を提供する社会システムであり、提供するのは人間一般に通用する自己肯定感、自己正当感ではありません。奴隷には奴隷の、商人には商人の自己肯定感、自己正当感を提供するのです。そのことによって社会は一定の安定を実現します。

 そして、身分制終了後、民主主義の世の中になって、この機能を果たしてきたのが「宗教」と「社会主義思想」です。「宗教」では、「神」が人々一般に自己肯定感、自己正当感を保証してくれます。しかし、「宗教」は、その非科学性によって昔日の実力を失ってしまいました。「社会主義思想」は、プロレタリアートこそ価値の生産者であり、新しい時代の担い手であるという物語によって、お金、権力、能力なき人々に自己肯定感、自己正当感を提供してきました。しかし、「社会主義」は、その経済的非効率性によって歴史の舞台から退いてしまいました。

 「宗教」なく「社会主義思想」ない時代に自己肯定感、自己正当感を自力で獲得するのは容易ではなく、多くの若者たちがその獲得に失敗しています。元次官襲撃犯・小泉はそのうちのひとりなのではないかと思われます。

 なお、自己肯定感、自己正当感を提供してくれるものとして「ナショナリズム」が息を永らえています。しかし、その倫理道徳性の基盤の脆弱さ、無謬にこだわる非科学性、更にその存在理由自体が自己肯定感、自己正当感を提供するところにあるというトートロジー的・非知的性格により、「ナショナリズム」は歴史的限界を迎えていると思われます。

 (国政の中枢にいる高級官僚をターゲットとしていることからすると元次官襲撃犯・小泉は「ナショナリズム」に依存する人間かもしれません。)