2009年1月7日
その人が不運に至ったについてはそれなりの個人的原因はあったでしょう。あの時に、もう少しがんばっていればとか、あの時に、ああ決断しておけばとか……。それは本人自身がいちばん考え抜いている事柄のはずです。それを第三者が、客観情勢を無視して本人を追及し、不運は本人の責めに帰すべき原因によるのだという説明を更なる第三者に試みるとなると、「ちょっと待ってくださいよ、あなたは何を言いたいのですか?あなたはどのような立場なのですか?」と問わずにはいられなくなってきます。
新年早々のテレビ討論番組でのことです。ある保守サイドの論客がスタジオ参加の非正規労働者青年に対して、そのような態度をとり、青年が非正規労働者にならざるをえなかった事情について詰問しました。
身分不安定な非正規労働者となったについて、その不運を個人的原因に帰することは、個人個人のヒストリーとしては不可能ではないでしょう。しかし、非正規労働者が大量に生まれ、その解雇が社会問題となっていることの説明としてそれを持ち出すことは、特に雇用不安への対応策を論じる場においてそれを持ち出すことは、社会科学的精神に欠けた態度であると非難せざるをえません。そもそも討論に参加する資格がある人なのかと疑問に思わざるをえません。
ある一定量に達する現象を社会的現象として社会科学的視点で捉えずに個人の責めに帰すべき事柄として取り扱おうという態度は、社会的問題を社会として取り組むことに抵抗しようとするものであり、知的誠実性に欠ける卑怯な態度だと断じなければなりません。
厚生労働省の政務官が日比谷公園の「年越し派遣村」に対して「本当に働く気があるのか?」と発言し問題となっていますが、同じような思考の偏りに基づくものではないかと感じさせられます。