2009年1月28日

 「労働者には詩が必要である。」と言ったのは夭折したフランスの女性哲学者シモーヌ・ベイユ(1909~1943)でした。言うまでもなく、この場合の「詩」とは「詩文」そのもののことではなく、「詩的精神」「詩的感情」といったものを指しているのだと思われます。そして、シモーヌ・ベイユは、労働者がまさに「詩的精神」「詩的感情」から疎外されていると考えたが故に「労働者には詩が必要である。」と言ったのであり、その対象を労働者に限る必要はなく、「詩的精神」「詩的感情」から疎外されている人々すべてに「詩が必要である」と言ってもいいのだと思われます。

 さて、そのような観点に立った場合、話が急に具体的になりますが、人々にとって貴重な安息日である日曜日、朝6時から「時事放談」、7時のニュースを見て7時半から「新報道2001」、9時から「NHK日曜討論」、10時から昼まで「サンデープロジェクト」といった政治・経済報道番組を視聴し続けることは、シモーヌ・ベイユの提言にまったく反することになると思われます。

 もちろん、政治・経済が「詩的」内容をもつことはありうることです。例えば、政治・経済テーマで人々が政治運動化したとき、そこに詩的性格が生じるでしょう。

 しかし、現在の政治・経済報道番組で報道されている内容は、政治テーマであるものの実は政党間の争いの巧拙を扱っているもの、専門家が取り扱いうる極めて専門・技術的な内容を素人談義にしたもの、などにすぎなくなっています。司会にそそのかされて出演者が激しくやり合うので一定の興奮がもたらされますが、取り扱われているテーマ自体に心を真に動かすものはあまりありません。詩的性格はほとんどないのです。

 民主主義社会である以上、人々の政治参加は基本的には望ましいものですが、「詩的精神」「詩的感情」を醸成する貴重なチャンスを放棄して日曜の朝から「作られた興奮」、「非詩的興奮」の時を過ごさなければならないのでしょうか?それは人々の人間的成長を阻害してはいないでしょうか?それはまたある種の政治動員ともいえるものであって、民主主義の観点からしても危険な要素を持っているのではないでしょうか? 

 ある許容範囲からの逸脱は見逃さないが、その場合以外は「鼓腹撃壌」、「帝力、何ぞ我に有らんや」というのでよろしいのではないでしょうか?(キリスト教徒は日曜礼拝をしています。)