2009年2月2日

 官僚批判がかまびすしい状況です。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の地位を失った原因者として犠牲の羊が必要であり、官僚は数々の不祥事、政治的判断ミス、リスクの過少によって人々の怨嗟の的となっており、犠牲の羊たる要件は十分に備えていますから、それはそれで「よし」としなければならないでしょう。

 さて、ここで考えなければならないのは、官僚に代わって輻輳する利害関係を調整し、今後の国政を主導する者たちをどこから調達したらいいのかという問題です。

 清廉潔白、公正無私、人格高潔、温情無比、知力抜群、胆力旺盛、博覧強記といった要素を兼ね備えた人は世の中にいることはいるでしょう。しかし、民主主義の世の中、そのような人を一人見つけて独裁者とすることはできず、我々が必要としているのは、集団として利害関係を調整し、国政を主導する者たちです。しかし、このような要素を兼ね備えた者を集団として見出すことは、今の世の中では絶対に不可能でしょう。ないものねだりは止めなければなりません。

 そもそも政治の世界では過去に偉人、賢人とされている人たちも、今の世の中が為政者に要求している倫理道徳のレベルからすると、私利私欲、党利党略はけっこう露骨で、決して誉められたものではないというのが実態です。  

 要求水準をぐっと落として、各界各層の利害関係を調整し、国政を主導する者たちに持ってもらいたい最低限の要素として上げられるのは、社会の仕組みの基本を知り、それが身についていること、社会の構成員の多様性(貧富、老若、賢愚、善悪、都邑、強健病弱等々)を知り、それが身についていること、このふたつです。知っていること、身についていることが配慮を呼ぶとは限りませんが、知らないで無視するよりは「まし」と言わなければならないでしょう。

 このふたつのことを知り、身につけた人材の集団を社会は仕組みとして確保していく必要があります。政治家の世襲制、政治家養成塾といった仕組みでは不十分なことはすでに明らかになりつつあります。