2009年4月17日



自己主張過剰が鬱陶しい世の中で、自己主張のせめぎ合いの渦中から身を遠ざけたい、そういう自己主張は可能か、こういう難題に、難題に取り組んでいるという姿勢をありありとさせることを控えつつ、挑戦したのが、熊谷守一だったという解釈がありうるのではないでしょうか。

 熊谷守一、1880年に生まれ1977年に97歳で逝去。1900年東京美術学校(現東京芸術大)卒。
 生涯世に阿ることなく、無欲、貧困の中で作品制作を続け、戦後からは自宅庭の小動植物を画題とした輪郭と平面の独特なスタイルの油絵を描くようになります。
 1967年には文化勲章を辞退するなど、名誉栄達を避け、仙人のような風貌そのままの生活ぶりだったようです。

 その生涯の軌跡を離れて、作品のみから熊谷守一の挑戦の成否を云々する能力を僕は持ちません。
 逝去後、次女熊谷榧(かや)氏による生前の住居(豊島区千早町)での熊谷守一美術館設立、地元支援者による出身地(岐阜県付知町)での熊谷守一記念館の設立によって、熊谷守一の作品とともにその生涯が紹介され、我々は熊谷守一の「自己主張」に触れることができるようになりました。
 
 そして、そこで現われる「自己主張」は、熊谷守一自身が想定していた自己主張の対象範囲、規模をはるかに超えるものだったでしょう。
 熊谷守一の挑戦は、守一本人を超えて展開されていることになります。
 熊谷守一に触れることができた我々としては、そのことに感謝ですが、自己主張の抑制を意識していたとすれば、守一本人としてはどのように思うのでしょうか?

 同様の挑戦を試み、それゆえ我々の目に触れることのない多くの「熊谷守一」の存在を、我々は想定しておくことも必要でしょう。