2009年4月22日



 事前知識なく、初めて鑑賞したら、しばらくはその独特の雰囲気に魅了されることがあったとしても、その後は安らかな眠りに就くことになるでしょう。
 実際、能楽堂では居眠りの方が何人か出ているのが実際で、いびきをかく人に会わないのが不思議なくらいです。
 (いびきをかく人は、事前に能楽鑑賞の危険を誰かから知らされて、鑑賞を控えられているのに違いありません。)

 さて、このところの何回かの能楽鑑賞によって、このような能楽が何故エンターテイメントでありうるのか、ありえたのかという疑問を持ってきました。
 そして、中堅能楽師(プロです!)との懇談の機会を得ることもあって、暫定的回答を報告できることになりました。

 能楽は、例外はあるようですが、そのほとんどは死霊、生霊、動植物の精霊などの霊と現実界との接触の物語です。
 霊が現実界に登場して、生きている人との間で精神的交流を行います。
 霊もまた現実界のメンバーであるという認識に基づいた物語であると言ってもいいでしょう。

 死と直面する人にとって(その象徴が能楽発展期の有力観賞者であった戦国武将)、死後においても現実界に自分のメンバーシップがあり、引き続き人々と交流できるという能楽の物語は、どんなに慰めになったことでしょう。
 これが能楽が提供するエンターテイメントの一つとして思いついたことです。

 もう一つの仮説があります。

 我が国では、茶道、華道、柔道、剣道といった「道」の世界があります。
 学び、上達し、一定の境地に達するというのが「道」であり、「道」には修行、訓練といった要素があります。
 快感が提供されるだけのものではありません。
 しかし、そこに、そのようなものであるがゆえのエンターテイメント性があると思われます。

 能楽には明らかに能楽鑑賞の「道」があります。
 修行、訓練によって、学び、上達し、能楽を知っていくことによって、「道」がだんだん開けてきます。
 鑑賞の場では、主催者側からほとんど何の親切な情報は提供されません。
 「道」を歩むという鑑賞側の主体性がなければ、鑑賞者は突き放された状態に放置されるだけなのです。
 歌舞伎その他の演劇のように能楽は鑑賞者側に「媚」を売らないのです。
 その結果失うことになる鑑賞者より、その結果得られる質の高い鑑賞者をこそ求めるというのが能楽の姿勢だと思われます。
 そのような姿勢の能楽の鑑賞者になるというところに能楽が提供するもう一つのエンターテイメントがあるのではないでしょうか。