2009年5月22日



 右翼的標題に驚かれた方が多いと思います。
 「大和民族選民思想」と誤解されないように注意して書かなければなりません。

 動物の中で人間が持つ顕著な特徴として、自己の存在に意味を求めるということが上げられます。(群れを作る動物に共通する特徴とも言えると思いますが、とりわけ人間に強いと言えるでしょう。)
 その人間の自然発生的集団である民族が、民族としての存在意義を求めることは極めて自然なことでしょう。事実として、歴史始まって以来、世界で攻防を繰り返してきた諸民族は、それぞれの存在意義を各種各様の方法で主張してきました。

 さて、実体として日本民族というものが存在するのかどうかということについては、議論のあるところでしょうが、ここではその議論は端折ることにして、日本民族は存在するということにしておきましょう。
 そうだとして、日本民族の存在の意味はどこにあるのでしょうか?
 問いの立て方からして、その意味は外部に求めなければなりません。そうでなければトートロジーになってしまいます。すなわち、問いを言い換えれば、日本民族の存在は人類全体に対してどのような意味を持つのかということになります。
 ここで注意しなければならないのは、民族という単位で意味を考えているということで、個人の単位で意味を考えているのではないということです。
 個人単位で人類に貢献する成果を上げている例(ノーベル賞受賞がそのわかりやすい象徴)はいくらでもありますが、それは今回の問いの答えにはなりません。  
 組織単位で人類に貢献する成果を上げている例(例えば日本独自技術による各種商品の生産、NGOの活躍)もありますが、それは民族固有の性格からもたらされたものであるかどうか、その可能性を完全に否定はできませんが、疑問なく肯定できるわけでもありません。
 民族単位で存在の意味と言えるものは日本民族にあるのでしょうか?

 あります。
 
 日本民族は数千年の歴史の過程で、今日に至るまで、人類に貢献できると言える膨大な知的生産を成し遂げてきました。
 それを確定する能力を私は到底持ち合わせていません。それは誰か天才的な頭脳に、しかも複数の頭脳に委ねるほかありません。顕在しているものもあれば潜在しているものもあると思われます。
 いずれにしろ、日本民族は長きに亘って知的活動を続けてきたのであり、その成果は人類全体の財産たる意義を持つものでしょう。

 そして、その膨大な知的活動の成果は、日本民族という「場」で生産されたものであるがゆえに、まずは日本民族という「場」でしか、保存、運用されえないのです。(日本民族が仮に滅亡したとしたら、歌舞伎、能などの古典芸能、独特の内容を持つ日本文学、独自の発展を遂げた日本の宗教、思想などが存続することはまず不可能でしょう。)
 すなわち、人類全体の共通財産たる日本民族の知的生産の成果を保存、運用し、人類全体の活用可能性を維持し、高めるという役割を、日本民族は人類全体のために担っているのです。
 逆に言えば、そのような役割を果たせない日本民族であれば、その存在意義はあまりないということになります。

 このような日本民族の存在意義を認識すれば、日本における文化行政、教育行政に更に一層力こぶが入ることになるでしょう。
 財政再建下での政策優先順位争いで間違いがないようにしてもらいたいものです。