2009年5月26日



 前通信のとおり日本民族の知的生産の成果が人類全体の財産たる価値を有し、かつその保存・運用は日本民族によってこそよくなし得るということは、人類全体のために日本文化の花を守り育てる「土壌」の役割を果たしうるのが日本民族であるということです。
 (この場合、日本文化としてすでに位置づけられている伝統文化に限定することはなく、例えば最近では漫画、アニメの類のようなものも日本民族の知的生産の成果と考えられるでしょうし、現在では評価されていないものの将来高い評価を得るものもあるのかもしれません。)

 日本民族が文化の花を守り育てる「土壌」だとすると、我々ひとりひとりは「土の粒」だということになります。
 これははなはだありがたいことで、我々は今のままの有り様で、「土の粒」が集まって「土壌」を形成することにより、特に意図するところがなくても、日本民族の知的成果を守り育てる役割を果たすという大役を、人類全体に貢献する大役を、担っているということになります。

 しかし、これは楽観論に過ぎると言わざるを得ますまい。
 すなわち、日本民族の知的生産の成果の保存、運用は、他の民族よりは日本民族のほうが担いやすいということにとどまるのであって、日本民族がそれをしっかり実現することができるということまでは保障されてはいないからです。

 何故、日本民族の知的生産の成果の保存、運用は、他の民族よりは日本民族のほうが担いやすいのでしょうか?
 それは、たぶん、知的生産の行われた日本の状況、知的生産を行った日本の人たちの感性、心情について、日本民族のほうが他の民族よりも強い想像力を持っていると推定されるからでしょう。
 従って、日本の知的生産の成果の一つとして鎌倉仏教を上げれば、鎌倉仏教を欣求した当時の人々の差し迫った心情を想像する力を、現在の日本人が失っているとすれば、我々日本人は鎌倉仏教の成果を守り育てる「土の粒」たりえないし、「土壌」たりえないということになります。
 こう考えますと、死との直面に欠け、飽食、平和の時代の我々が飢餓、戦乱、疫病蔓延の時代の人々への想像力を失っているということは、十分にあることではありませんか。

 民族の課題を自覚して、明確な目的意識の下で、必要な資源を投入してなされる、想像力強化充実の一大事業でなければ、課題実現にはならないと思われます。