2009年6月14日


 金融緩和政策にもかかわらず有望な実物投資目標を見出せないが故の悲喜劇が例の不動産バブル、株バブルでした。
 そして、その再演が最近のサブプライムローン問題でした。
 先進国において有望投資先を容易に見出しがたいという現在の状況に解消の見通しはなく、当分の間、この問題は深刻な経済問題であり続けるでしょう。
 
 ところで、この経済問題のほかに深刻な投資目標喪失問題があります。
 それは若い人たちの自己投資の目標喪失問題です。

 自分が自由にできる時間の使い方を3つに分けることができます。
 何らかの自己目標実現のために自由時間を使う「自己投資」的時間の使い方、自由に使えない時間に蓄積された肉体的、精神的疲労を回復するために自由時間を使う「自己回復」的時間の使い方、将来に希望なく、自己回復へのこだわりもなく、ただ時間を面白く過ごせればいいという「自己消費」的時間の使い方の3つです。

 「自己投資」の目標は、豊かさの獲得といった物質的目標の場合もあるでしょうし、他者の幸福を究極目標とする社会貢献的目標の場合もあるでしょうし、人格的成長、完成といった精神的目標の場合もあるでしょう。
 いずれにせよ、将来の目標のために、自由時間が「自己投資」に多く使われる社会は、活力ある、前向きの、元気な社会でしょう。(不健全な目標である場合があるので、「健全な」とまでは言いきることはできません。)
 それは、社会のGNP水準には依存しないものと考えられます。

 さて、現代日本の若者が彼らの自由時間をどのように使っているかと考えますと、「消費のための消費」以上の意味を認めがたく、その場かぎりの面白さを追求することだけに自由時間を消費しているように感じられる例が多く、将来のために「自己投資」的に時間を使っている例は例外的のように思われます。
 彼らは、青春こそ人生のピークであり、その後の人生は右肩下がりでしかないと思い定めているのではないでしょうか。
 スタート時の失敗感から、自己の将来を期待して自己に投資するという発想に至らないのではないでしょうか。

 高齢が人格的完成をもたらすという考え方があった時代もありましたが、現在は高齢がもたらすものとして強調されているのは認知症をはじめとする人間的退行です。
 清く正しくいられるのは若い時代のみであり、大人になり、生活がかかるようになれば、社会の汚濁にまみれないではいられない、というのが今の社会の雰囲気です。
 社会のスタート時にハンディキャップを負ったならば、その克服は困難と一般的に信じられています。
 彼らに人生を右肩下がりに思い定めさせたのは、このような社会全体の一般的精神でしょう。
 責任が彼らにあるのではありません。