2009年7月4日


 司馬遼太郎の本の書名「この国のかたち」という言葉が独り歩きしています。概して政治的非難の際に使われているようです。
 そして、「あの政治家は、『この国のかたち』を提起できていない」「国民は○○党から『この国のかたち』を示されていない」などと、非難は「この国のかたち」の不存在を突くものとなっています。
 
 しかし、「この国のかたち」という言葉は一体何を意味しているのか、よく考えると不明です。
 例えば、持続的経済成長、財政再建、地球温暖化防止、環境維持改善、地方振興、平和安全の確保、平和的外交の展開、老後の生活安定、格差是正、人材育成、豊かな心の育成等々と課題を抽象的に上げるかぎりにおいて国民の間に意見の不一致がそうあるとは思えない現状において、「この国のかたち」が求められるということは、これらの課題の上位に何らかの目標があるということなのでしょうか?
 逆に、これらの課題を実現する手段の明確化を求めるもので、例えば経済成長のための戦略的産業は何かといった、これらの課題の下位に位置づけられるものなのでしょうか?
 それとも、必ずしも調和的とはいえないこれらの課題(例えば経済成長と地球温暖化防止、財政再建と地方振興)の間の調整原理が「この国のかたち」という言葉で求められているのでしょうか?
 「この国のかたち」とは政治的意志決定の方法のことなのでしょうか?
 「この国のかたち」とは単に対外的イメージの演出の仕方に過ぎないのでしょうか?

 結論を言ってしまえば、「この国のかたち」という言葉の使われ方からして、これらの問いのいずれもが当てはまるものだと思われます。

 それぞれの人がそれぞれの都合がいいように「この国のかたち」という言葉を使っているのです。
 結果として「この国のかたち」という言葉は相当に不定形なものになっているのです。

 政治、経済、社会を取り扱う報道ジャーナリズムによって「社会に対してもの言いたい」という国民の間の不定形な欲望が常に刺激され、醸成されています。

 そして不定形ゆえに、絶えずかたちを変えて再生産され、その欲望は決して満たされることがありません。
 多用される「この国のかたち」という言葉はこの欲望を象徴しているのだと思われます。それゆえ、いつもその不存在が問題とされるのです。
 その姿は、十分なお金を持たないままデパートに入り、陳列されている商品群に欲望を刺激され、永遠の欲求不満のまま店内をさ迷い歩く、自己喪失している消費者に似ています。

 決して満たされない欲望は、快楽原理でしかないその無原則のゆえに、ある時一気にファシズムの網にからめとられかねない危険にさらされています。

 人々は「この国のかたち」などという一見もっともらしい言葉遊びから脱却し、自分自身の欲求を冷静に見つめ、その実現可能性を見極め、現実的目標を持つという科学的態度が必要です。
 ジャーナリズムは、人々の政治的欲求不満を募らせることばかりに専念することをやめ、人々の科学的態度を支えてこそ、ジャーナリズムの本来の役割を果たすことになるでしょう。