2010年2月21日(出来たて)



 「もしキリスト教が道徳を教えようとしているのなら、それはあまり面白そうではない。」
 「道徳のために宗教は必要ではない。イエスの倫理的な教えも、個人や社会に実行可能な指標を与えてくれない。きっぱりとお引き取り願おう。」
 キリスト教信者であるピーター・L・バーガーは率直に躊躇なく、こう断言しています。(「現代人はキリスト教を信じられるか~懐疑と信仰のはざまで」《教文館》)

 その意見に僕は賛成できます。道徳は純粋に人間界の中での話にすぎないからです。

 もちろん、人間界に関心の強い神様がいて、その神様が人間たちに道徳を説きたいというのであれば、それを拒否するわけにはいきますまい。

 しかし、それが神様の本務(ヘンな言い方ですが)ではないという意見には賛成できます。

 さて、バーガーは「信仰とは、われわれが永遠に向けて造られたことを信じることである。」とし、「(我々の認識能力では永遠を想像することは不可能であるにしても)われわれは不死の存在として造られたのである。」として、次のように言います。

 「わたしは、死は『自然』なのだから受容すべきだ、という安易な慰めを拒否する。断じて否である。死を受け入れてはならない。それは、人間の中心にある『本質』、神の創造において意図された人間の本質への侮辱である。」

 そして、さらに、次のように言うのです。
 「(キリストの死の)その目的は、死を克服し人類が堕落(アダムとイブのことでしょう)により失った永遠の生命を回復するためだ、ということである。」
 「(キリストが復活したという信仰とともに)終わりの日にすべての人が復活するという信仰は、キリスト教信仰の中心であり続けてきた。」
 「終末論の基盤には復活がなければならない。終末論は悪と苦と死を克服する希望を具現していなければならない。この要求を満たさないものは何であれ、最も真剣な意味で『興味を持つ価値がない』のである。」

 ここで私は大いに驚きました。
 「永遠の生命」、「あの世での再生」、「復活」を教義の要素としている宗教は確かにあります。
 しかし、 キリスト教に限らず信仰を求める人々の直接の動機として、バーガーのように死を受け入れず、これらの要素を期待して信仰を持つということが一般的にあるのでしょうか?
 拒否ではなく、むしろ死の受容を説く仏教国の人間の偏りゆえの驚きなのでしょうか?
 神様とは、そんな大胆な、大変なお願いを聞き入れてくれるものなのでしょうか?
 神様とは、ただ居てください、といった素朴な、ささやかな、ぎりぎりのお願いをするものなのではないでしょうか?
 「永遠」「再生」「復活」というのは象徴的表現であることを私が知らないのでしょうか?