2009年8月7日
およそ宗教と名のつく活動で神秘体験という要素をもたないものは皆無といっていいでしょう。
それどころか、ほとんどの宗教は、教祖などの創始者、指導者の神秘体験を教義の主要要素とし、また一般信者の神秘体験可能性を含めて、布教上の重要な要素として神秘体験を取り扱っています。
宗教と神秘体験は密接不可分のもの、神秘体験こそ宗教の本質というのが一般の理解といえるでしょう。
しかし、神秘体験は宗教的修行、苦行で得られるばかりではなく、薬物、極度の疲労、飢渇、重病、臨死体験等で得られます。
要するに、意識が喪失するかしないかといった極限的状態で神秘体験は現われます。
意識がはっきりしている状態での体験と余りにも異なる体験なので、誰にでもインパクトは極めて強いものでしょう。
しかし、宗教上の神秘体験とその他の原因による神秘体験は同種の脳内現象であるというのが最先端の医学の教えるところです。
したがって、その体験が価値あるものかどうか、崇高さなどにつながるものなのかどうか、第三者的立場からは疑問とせざるを得ないところです。
宗教における神秘体験の尊重、崇高視は宗教が非理知性のものであることの象徴にも思われます。
NHKTV「こころの時代・法然を語る」の解説者、広島大学大学院教授町田宗鳳氏は神秘体験を宗教の本質とは考えていない旨先日の番組の中で語っておられました。
町田氏による同番組のテキストには以下のように書かれています。
「法然の幻視体験(《注》法然は難行苦行の結果、意図して仏、菩薩の姿を観ることができるなど数々の神秘体験能力を持つに至っていたそうです。)に、必要以上の宗教的ベールをかぶせ、それを神聖視する必要もなければ、そういうことを本人(法然)が望んだとも思えません。それよりも、私たち一人一人が問われているのは、自分たちを閉じ込めている自我意識の境界をいかに破り、どういう人生を生きるか、ということだけです。」
宗教家自らが宗教上の神秘体験を絶対視しない見解を語るのに初めて出会いました。神秘体験を客観的に捉えたもので我が意を得たりの感を持ちます。
しかし、さて、文章の後半にあるように町田氏は人間の苦悩からの解放のために、「自我意識の境界を破る」ことが必要としています。
テレビでもそのように語っておられました。
そこには問題が感じられます。そのことについては次回の通信で取り扱うことにしたいと思います。