2009年8月7日 


町田宗鳳氏の見解を再掲します。

  「法然の幻視体験に、必要以上の宗教的ベールをかぶせ、それを神聖視する必要もなければ、そういうことを本人(法然)が望んだとも思えません。それよりも、私たち一人一人が問われているのは、自分たちを閉じ込めている自我意識の境界をいかに破り、どういう人生を生きるか、ということだけです。」

 「自我意識」とは自分という人間の主人は自分であるという意識です。
 自分の主人であるにもかかわらず、自分の物質的、精神的要求をコントロールできず、自分の要求を満たすことができない、すなわち自分が自分という人間の主人たりえないというのが、「自我意識」を持つがゆえの苦悩です。
 自分の主人であるという立場を放棄してしまえば、例えば物質的、精神的要求は誰かの定めるところにとどめる、誰かの提供するところで要求は充足されたとするということにすれば、欲望が満たされないという感覚はあるでしょうが、それが苦悩となることはないでしょう。
 「自我意識」を持つがゆえの苦悩の最たるものは、自己の存在の意味を求めるという精神的要求であり、意味を要求するにもかかわらず無意味性から脱却できないという苦悩でしょう。これまた、疑問を持つことなく、誰かにそれを全面的に委ねてしまえば、苦悩から解放されるでしょう。
 「誰か」とは、例えば「神」「自然」といった超越的存在から「国家」「所属団体」「指導者」「マインドコントローラー」といった生々しいものまでが考えられます。

 そして、以上から明らかなように、「誰か」の存在の程度により「自我意識」を持つがゆえの苦悩の程度は変化することになります。
 すなわち、「自我意識」を持つがゆえの苦悩の程度は歴史的に変化するものなのです。
 「自我意識」は、近代社会に至り社会から徐々に「誰か」の役割を果たしてきた「神」「共同体」が退場するに従ってだんだん拡大してきたのであって、現代社会に至って極度に肥大しているということができるでしょう。


 さて、町田氏は「自分たちを閉じ込めている自我意識の境界をいかに破るか」ということが問われていると言っています。
 それは自分の主人として「誰か」を導き入れるということであり、自分が自分という人間の主人であることを放棄するということであり、すなわち自我意識をなくすことになります。それは人格の否定とイコールではないでしょうか。
 我々がまさにそうであるところの近代的個人という人間像は、人間はそれぞれが自分の主人であるという人間像です。
 それが今日の私たちを導いてきたルネッサンスであり、ヒューマニズムであり、民主主義だったのではないでしょうか。
 その人間像と「自我意識の境界を破る」という「誰か」を導き入れる考え方は両立しないのではないでしょうか。
 「自我意識の境界を破る」ことは、近代的個人である我々にとっては精神的自殺を意味するのではないでしょうか。
 
 「どういう人生を生きるか」という人生の選択性の意識は近代的なものです。近代になって「誰か」がいなくなってきたからこそ成立する考え方です。
 一方「自我の境界を破る」という考え方は近代的個人をそもそも否定的に捉えるものです。
 「自我の境界を破る」という目的設定は「人生をいかに生きるか」という問いへの回答たりえないのではないでしょうか。

(「自我の境界を破る」として自我意識を放棄するのではなく、放棄しがたい自我意識のもとで自我意識が求めるものを対象化し、客観化し、相対化すること、それによって自我意識が求めるものを反省し、改変していくこと、我々がすべきことはそういうことなのではないでしょうか。そして、宗教はそれに貢献する機能を持っていると思われます。)