2009年11月8日
前通信で紹介した「心の時代アーカイブス」に登場した報恩寺住職(当時)坂東性純氏の話です。
鈴木大拙はトラピスト会司祭トマス・マートンとの対談で、キリストの復活が十字架の処刑の3日後ではおかしい、処刑されて即復活したはずだ、と主張し、トマス・マートンはその深い宗教性に感動を表わしたとのことでした。
仏にはその象徴する対象、そのはたらき、その誕生の経緯から法身仏、応身仏、報身仏という区分けがあるそうです。そのうちの報身仏というのは在家の信者がついには悟りを得て仏になった、要するに「成仏」して仏になった、そういう仏をいうそうです。
「Men’s extremity is God’s opportunity」
「人間が行くべきところまで行って窮まったところ、どうしようもなくなって万事休したところに、神が登場する、神の出番がある」、前通信でも紹介した鈴木大拙の英文です。
鈴木大拙は、この文を仏教における「成仏」あるいは「悟り」として表わしたのだと思いますが、そうだとすれば「成仏」「悟り」に「Men’s extremity」から「God’s opportunity」までの3日の経過とは何ともおかしな時間です。
鈴木大拙のキリスト復活に関する発言は、キリストの「復活」を人間キリストから神キリストへの転換ととらえ、かつ仏教における「成仏」「悟り」との類似において「復活」をとらえていたところから出てきた発言ではないでしょうか。