信じるもなにも

そうなんだから大丈夫。

 

というのが

最近のわたしの視点の持ち方なのだけど、

 

 

ときに心配はしたくなる

不安がふわぁっとかすめることもある

 

 

でも結局は

すべてが大丈夫になるのだと

この数年のできごとを積み重ねてきて

だいぶ、どしんと安定してきた。

 

 

先日、娘の担任との面談で

「わたし我が子のこと全然心配していなんですが

 こんなに心配してなくて大丈夫ですかね〜笑」

とつぶやいてみた。

すでに7年の歳月をともにしてくれている

(きっと親よりも長い時間をともに過ごしている)

愛溢れる担任は

わたしのつぶやきを笑って肯定してくれた。

 

 

我が娘には何度となく伝えている

「ママはあなたのことを何も心配していないよ」

という本音。

 

 

娘の生きるちから

人間力の素晴らしさは

もうすでに知っているし

実際にそうだし

 

 

わたしがどうこうしたところで

もっと大きなちから

愛と呼ばれるような何かが

彼女にはたらきかけていることも

よく、よく、わかっている。

 

 

だから

中1にして

カタカナに弱かったり

「ン」と「ソ」がいまだに

書き分けられなかったりしても…笑!

 

そんなのは

心配の質がちがう...笑。

 

 

きっとそういうのとは

あまり関係ない、

不便を感じない世界で

生きていくのだろうし、

 

 

ひとととはちがう

彼女の持つちからを

存分に活かしていくのだろうと思う。

 

 

「もうちょっと心配してよ~」

と笑いながら言う娘は

わたしよりも

【何があっても大丈夫にしかならない】

その流れのことを

すでに全身全霊でわかっている。

もはや、信じている、とは違う、

知っている、わかっている、という領域。

 

 

親としては

ときとして苦笑するしかないくらいの

つよい意志とちからで

自分の望む現実を叶え創っていく。

 

 

だから

わたしもすべてはそうなのだと

思っている。

 

 

起こることしか起こらないし

起こらなくていいことは起こらないし

起こったことはただの起こったことだし

 

 

それをどんなふうに

受け取るのか

受け取らないのか

気にもならないのか

 

ということなのだと思ってる。