2日前、友人2人と京都に行きました☺️
京都は遠いからなかなか行かないんだけど、久々の遠出!










美術館からの、ランチ&カフェ🍽



友達何人かのグループLINEでの呼びかけだったんだけど、誘われたのが嬉しかった。
「京都」という言葉を見た瞬間、「行きたい!」ってなって、その欲求に従おうと思った。



なんだけどね、帰宅したら疲労感が半端なくて。
今までなら、見過ごしてた。というか、見ないふりしてた。



だけど、これって何かある!と思って、自分の体と会話してみたのね。
その過程をグルコンでも出した。







一緒に行った友人は、私の狭い交友関係の中で奇跡に近いくらい、自然体でなんでも話せる大学時代の友人(笑)。
だから、嫌いじゃないしむしろ好きなんよ!!



なのに、「つまらない」って思ってしまった。
(まあ、社会に出たら仕事の愚痴は溜まるし、職場と全然関係ない人と喋りたくなるよね)



で、お風呂場で怒りを出すところまではよかった。
だけど、その後もなーんかモヤッとする。
怒りが上滑りしたみたいな、、別の何かがあるぞ!と。



それも深堀したら、うっすら分かって。
私、怒りに余計な感情をのせてたんです。



あの時、私が話題を変えたらよかったのに。
あの時、電車じゃなくてタクシーに乗ったら遠回りしなかったのに。
そもそも、疲れてる時に京都なんて行かなきゃよかったんだ。
当日キャンセルしてもよかったのに。



そう、余計な感情というのは。



私が悪いという、自責の念。



言ってしまえば、私が悪い、で全て片付いてしまうんよね。
相手への怒りはあった。
だけど一方で、自分が悪いのにという後ろめたさが罪悪感となって残っていた。
だから純粋に怒りを出し切れていなかった。



「怒り」って何かなって、自問自答してみてね。
返ってきた言葉は。



感情の一種。
「私が」、感じて出したら終わり。
他人のあれこれは関係ない。



これなんだよね、純粋な「怒り」というのは。
だから、相手が嫌いだからとかではなく。
(嫌いな人だと反応しやすいかもしれないけど)
私の中から湧き上がったのなら、溜めずに出せよ、と。



それと同時に、「私が悪い」ってなんてタチの悪い言い訳なんだと、驚いた。
私がその時の行動を変えたら、未来が変わっていたし、怒りも疲れも少なくなったかもしれないから。
だけど、その時その時であらゆる最善を選択しているはずだから、私が悪いわけではないんだよね。



怒るのは悪いことです。我慢しましょう。
常に人と仲良く接しましょう。
人を傷つけてはいけません。



この教えの元で、生きてきたけど。
怒りを我慢していい顔することで、人は傷つけなかった代わりに、自分が傷ついてた。



私は今までの人生、我慢しすぎて「怒り方」がわからなくなってた。
だけどいいんだ。
私の中から湧き上がった感情を、ただそのまま何ものせずに、出すだけなんだから。