碑文


昭和5年6月、日本海軍は優秀な飛行機搭乗員を少年期から早期に養成するため、横須賀海軍航空隊に飛行予科練習部を創設したが、昭和14年3月、霞ヶ浦湖畔に移し土浦海軍航空隊が誕生した。


時移り戦雲急を告げ、我が国の命運は海軍航空戦力にかかっているとの観点に立ち、搭乗員緊急養成の使命を帯びて、三重海軍航空隊を始めとして17の海軍航空隊を新設した。


予科練創設から太平洋戦争終結に至る十五年有余の歴史であったが、日本全国から十五歳前後の紅顔可憐な少年たちが、愛国の至情と大空への憧れを抱いて志願入隊をし、心を養い体を鍛え技を練り、飛行練習生の課程を経て大空へ巣立った。


昭和12年7月勃発の日華事変で初陣を飾り、昭和16年12月8日開戦の太平洋戦争においては、名実ともに海軍航空戦力の中核となり、航空母艦から或は基地から飛び立ち、太平洋全域にわたって敵を撃破し、緒戦においては大空を制圧したが、激しい反撃により死闘が繰り返された。戦い利あらず敵、我が本土に迫るや、特別攻撃隊員となって敵艦隊に体当たり攻撃を敢行し、なんのためらいもなく唯ひたすらに祖国の安泰と同胞の幸福を祈りつつ散華した。実に卒業生の8割香川県出身者133名を含む1万8千3百余名の春秋に富む若人が、雲の彼方に消え再び還らなかった。


昭和20年8月15日砲煙絶えてより星霜50年、廃墟から立ち挙がって経済大国に発展し、繁栄と平和を謳歌する日本の礎となって、桜の花さながらに散っていった、予科練出身海軍少年飛行兵の冥福と恒久平和を祈り、この碑を建立する。

 平成7年5月7日

予科練出身香川雄飛会有志一同

撰文

謹書


零式艦上戦闘機21型


五省


至誠に悖る(もとる)なかりしか

言行に恥づるなかりしか

気力に缺くる(かくる)なかりしか

努力に憾み(うらみ)なかりしか

不精に亘るなかりしか


昭和7年、第34代海軍兵学校長「松下元少将」の発案により、生徒各自の行為を反省させて明日の修養に備えさせるため、5か条の反省事項を考え生徒に実施させたもの。


降るにつけ、照るにつけても思うかな

我が故郷の父母は如可にかと

 元特攻隊員 よみ人しらず


散る桜 残る桜も散る桜

 元特攻隊員 よみ人しらず


若鷲之群像