『現状』(いま) 〈完結〉

僕の頭のおかしさや精神の異常性を、肉体の不調や筋肉や神経伝達系の不具合がすべての原因だとは考えたくはない。

自分自身も十分に異常だけれども人間社会や地球環境も十分に異常だと判断出来るだろうと思うからだ。

科学雑誌ニュートンの最新号に人の将来は遺伝と環境の両方から相互に影響を受けているとあった。
そして初めの頃は環境からの影響が大きく働きやすいが次第に遺伝的な影響が大きくなるとあった。

あんまり質の良い論文でないことは確かだ。
しかし考えの足しにはなる。

昔、小学生の頃、僕は性に興味があり、新しい体位を考案したいと考えていた。
と言っても知識欲としてであって実技を伴っていた訳ではない。
が親の蔵書を参考書にしていたのでかなり警戒されたのは確かだ。

同時に、幼いながらも古事記などの神話で近親交配が多いことやナチスの優生学、古代エジプトの近親相姦やフロイトの心理学などの知識に触れ、実際に身近な親族と言うか一昔前は親族間で結婚することも多かったらしく、戦前から土地は持っていたらしいが他との接点が少ない根っからの百姓だったようで、今考えると馬鹿馬鹿しいけれど、年の離れたイトコに淡い恋心を抱いたり、結婚可能な年齢になり次第、結婚と出産を繰り返すと近親相姦の確率はどの位高まるかなどと想像したこともあった。

かなり気持ちの悪い本当に悪趣味な想像ではあるが、当時の中国で実際にあった事件に基づいて想像していたものと憶えている。

自分の家族である娘を監禁していた事件。

他人の自我を認めない時点で自分の自我も満足に発達させられていなかったのだろうと思われる。

要するに父権者と言うか保護者の影響が強すぎて自分の意志で自立をして自我を確立させていく段階に到達していないと言う事で、世の中のDV(家庭内暴力)は、すべて自我の未発達により自我に対するイドの優勢によって虎の威を借る狐状態の超自我に支配されていると言うことに他ならないと僕は考える。

共産主義や社会主義に共通する問題点だと思う。
特にスポーツ選手にも傾向が見られるかな。

しかし共産主義や社会主義に限らない。
学閥主義や学力偏重主義には同じ構造がある。

スポーツの強さや学力の高さを正解としてしまうことは、果たして正解と言えるだろうか?

その強さや高さを実現している国で威を争う。
代理戦争の様相を呈して。
挙げ句、相手の強さや高さに瑕疵を付けようと、互いに鎬を削るでもなく、互いの粗探しに終始するのでは、情けないとしか言えない。

人は弱さや惨めさを抱えて生きているが。
華やかな強さや高さよりも支え合うところにこそ、雅び(上品だったり優美だったり)を捉える精神は遺されているのではないのだろうか?

僕は資本主義に問題がないと思っている訳ではないし、現在の状況が望ましいと考えている訳でも勿論ない。

ただ現状(資本主義)を否定する為に共産主義社会主義を持ち込もうとするのは間違っていると思うだけだ。

出来ることを何一つしないまま個人所有を禁じれば、すべてが丸く収まるなんて変テコ過ぎる。

それは残された資本主義国家と交易する共産主義国家にとって都合の良い奴隷を増やすだけの話だろうし。

イドの優勢に溺れていたい人々、例えば王政復古派や超人やカリスマによる独裁政治、宗教的支配体制などを待望する大衆にとっては良いのかも知れないが。

でも本当に良いのだろうか?

それでは、上で管理する側も、下で管理される側も、道具として酷使されるだけで終わらないか?

ハムラビ王や秦始皇帝による法を敷こうとした努力が水泡に帰して人間の生き方は大きく後退するだろう。

もっとフレキシブル(柔軟 融通)な在り方でなければ、駄目だと思う。

死海文書を遺したエッセネ派のクムラン教団。
入会するには財産を放棄(寄付)する必要があったらしい。

いつの時代も心痛を抱えるより平穏無事を人は願う。
だが、しかしだ。

豊臣秀吉が太閤検地と刀狩をして価値の基準を定めたように、世の中に隠されて溜め込まれている富などは許さないと言う機構(法人的な意志)こそ共産主義•社会主義だ。
資本主義は、同じ方向性だと考えられている。
※織田勢は寺社や公家の特権を問題視した
(全勢力が行商活動と山賊海賊行為をしていた)

仏教は征服戦争に明け暮れる大国家を滅ぼす為に成立したものと僕は考えているし、キリスト教もローマを滅ぼす目的だったとも考えられる。

ユダヤ教は相続であり簒奪でもあると考える。

神に似せて造られたアダムがイブと失楽園する。
イブはアダムの肋から造られた。

要するにリリスとアダムの近親相姦で出来た実の娘である妹と更に近親相姦した話じゃないのか?
※リリスを実母か義母と考えた場合

ユダヤ教はバビロン捕囚の時期に生まれた。
その前のソロモン王の時代にシバの女王と接触する。

歴史的根拠はないものの、エチオピア王家はソロモン王とシバの女王の子孫だとされていた。
※紀元前5世紀〜10世紀 アスクム王国
(1974年 ハイレ•セラシエ1世 廃位)

シバの女王はイエス·キリスト生誕時の東方の三博士の雛形(予形)だと言う。

シバの女王はアラビア半島南端の商業国の主。

アラビア半島の付け根にある2つの川に挟まれた地域の北部がアッシリア、南部がバビロニアと呼ばれて、アラビア半島の南半部は後世ヘレニズムやローマ時代にはアラビア·フェリクス(幸福なアラビア)と呼ばれ、香料の産地とされたが実態は知られていなかった。

このアラビア半島南端とはインドのことだと思われる。
アラビア海を介してエジプトと交易をしていた旅団が、アデン湾から紅海を経て川を遡行して交易をしたものと見るのだ。

そこにはアッシリアがあり一時期にはエジプトを支配下に組み込んでいたものと考えられる。
その時期とはツタンカーメンの前のイクナートン(紀元前1362 ?〜1333年 ?)、
アメンホテプ4世の時代のことで、王妃ネフェルティティはアッシリアから嫁いでいたキヤと同一人物だと僕は考えている。

神アモンを否定し、太陽神アトンのみを信仰したのはアッシリアの意向が働いていたものとして。

時代は紀元前1300年頃。
シバの女王は紀元前900年頃。

つまりイクナートンによる宗教改革の余波は400年の長きに亘って内外に影響を及ぼしていてシバの女王とソロモン王の会談は一つの転機であったと考える。

巨人ゴロアテを倒したダビデとはアッシリアに対する優位を確立したイスラエルと言う意味ではないか。

そしてアッシリア滅亡でイスラエルもバビロン捕囚のような民族虐待を受けるが、それは元よりアッシリアの実態が多民族国家のような複合的な人種構成だったことから来ているのではないだろうか?

紀元前1300年頃の中東の人物が、中国大陸の王朝の破壊と建設に携わっていて、その流れに周王朝の建国に関わった太公望呂尚がいて、その呂尚が実は仏教の守護神である帝釈天でもあると見ている。

商売とは何だろう?

商い、交易とは多分に慣習法を必要とするもの。
刑罰を定めたところから都市は膨張を開始した。

都市と私有財産は国や国際的な組織の共通項。

商売とは都市に属する人々に分配を行い再分配を促す仕組みであり都市間を往来し交流を促す仕掛けであり司法と立法と行政を執り行う最低限度の社会機構への始まりであり秩序の形成と維持管理を行う実体だ。

政治(チエ)は顔であり、カネ(商売)は空気であり血液であって、体の隅々まで行き渡るように仕向けているのが官僚(脳)であり公務員(心肺機能)と大衆(内臓)だと言えるのではないだろうか。

資本主義は一般大衆に対して現実の把握を促す優しい取り組みであり、共産主義は実質的には公務員化することに等しい動きであり、社会主義は官僚化と言える。

結局は何れ必ず通る道であって個体的にも全体的にも全ての役割を兼ねて担うことが必要になってくる。

そう言う諸々のことを各自が虚心坦壊に受け留め、共通の利益と実理に従って動いていく。

それが過渡的な状態である現状の先にある世界。
そのように僕は考えている。

物事の進行が予想に反し遅いのは僕自身が属してきた幼少からの環境が全体に比して極度に秩序化の促進が実現していたからなのだろう。

僕は井の中の蛙であって、世間一般が抱えている矛盾に満ちた様相を全く理解していなかった。

井戸の中から外を眺めて自分自身を環境へと投じた今は世界がどれほどの混沌に覆われているのかと思う。

早く目鼻を付けてしまえば良いのにと呆れてしまう。

必ず質の良い教育と再教育が実現されますように!
そう願い祈る以外に手段方法がない。

 参照
wikipedia
カシオ電子辞書

 -追記-

現実はいつでもマイナーチェンジを必要とする。

そのぶり返しの振り幅を小さく出来るかどうかは商圏の規模と先進性の程度に関連していて、あらゆる分野の技術革新にも後進の状況を完全に無視した暴走などは許されることなく、気付けば主流から外されて孤立なんてことも当然ある話だ。

振り幅が小さければ小さいほど適応能力は大きくなり順応速度も早くなるが、振り幅が大きくなければ選択肢が少なくなることで多様性に欠け後発組を除け者にしてしまう為、注意を怠れば技術的分断や文化的断裂へも繋がりかねない。

小さな共通部品こそが全ての要なのだ。

今の日本は世界的な先頭集団からは少し離れた位置でマイナーチェンジ(手直し)の取りまとめをしている。

そんな風に感じる。

遅れている訳ではなく、寧ろ調整役(ペースメーカー)を買って出ているようにすら見える。

しかし物事には順序と言う時系列の上での順当性と、結果と言う時系列上も覆すことが出来ない人類共通の空間認識能力を歪めさせる立ち位置の強制と言う社会的組織に属する個々の自尊心に関わる問題もある。

そうした小事から自由になれる日々を強く願う。

それは知ることと自らが積極的に関わること。
僕はそう思う。
力強く前に進んでいきたい!

 -end-