ぼたん石と見返り獅子


まったくの自然石であり、奥の石はぼたんの花、右手前の石は獅子が振り返った姿に似ていることから、このように名付けられている。



高松藩2代目藩主•松平頼常は、水戸藩2代藩主•徳川光圀(水戸黄門)の長男。

女中の子ということで徳川光圀の同母兄•松平頼重の居城、高松城内で養育され、延宝元年(1673年)、松平頼重の隠居により高松藩主となっています。


松平頼常の治世の時代、日照り続きで苦しんでいた領民を助けるため、銘木や奇岩を持ち寄らせて、それと引き換えに食料などを与えたという逸話が残されていますが、見返り獅子や、その近くにあるボタンの花に似た形をした「牡丹石」は、その際、領民が運んだものと伝えられています。


奥が牡丹の花の形

右手前が獅子の形に似る

ことから、ぼたん石、獅子石


大名庭園としての栗林荘(現在の南庭)は、高松松平家の初代•松平頼重が頼常に家督を譲って隠居した際の庭園整備に始まり、頼常の時代に、飢饉対策として庭園を拡充、さらに3代の頼豊は在国の際には高松城ではなく栗林荘を居所として、さらに充実させています。




茶室 日暮亭(ひぐらしてい)

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日暮亭


入母屋造。茅葺屋根。


焦茶に枯らした茅の色が、緑溢れる園内に神さびた(かんさびた)空気を落とし、鄙びた風情以上の非現実的な空間美を演出している。

実に贅沢だ照れ


茶店(ちゃみせ)として使われているらしい。




講武榭(こうぶしゃ)


藩政時代に武を練った場所で扇屋原(おうぎやはら)ともいう。もと矢場御殿、馬場御殿などがあり、馬に乗って弓を射たところと伝えられている。


講武榭


榭(しゃ)

土を高く盛り上げた上に築いた建物 うてな あずまや


現在は失われたままの、矢場御殿と馬場御殿を指すものと思われる。


屑篭(くずかご)


掬月亭


月を掬う(すくう)


風流だねニヤリ


日暮亭(ひぐらしてい) →


涵翠池(かんすいち)


掬月亭西の池。酒翠池は、翠(みどり)を涵(ひた)すという意で、石組みの素晴らしい中島の瑶島(ようとう)の木々だけでなく、背景となっている紫雲山の自然を含めた意図で命名したものである。


瑶島


怪石の石組みで蓬莱仙島(不老不死の仙人が住むとされる島)を表現しています。

涵翠池では夏になると淡いピンクや赤色のスイレンが花を咲かせて、見事。


【ニッポン旅マガジン】(瑶島) 写真 説明文


涵翠池を南側に小普陀(しょうふだ)と呼ばれる場所がありますが、実は、この一帯が、栗林公園で最初に作庭が始まった場所だと推測されています。

室町時代、生駒氏の家臣、佐藤志摩介(さとうしまのすけ)が隠居した時代、栗林公園南西部に位置する小普陀の辺りに屋敷を構え、仏教的な庭を築いたという大名庭園以前の庭園です。


発掘調査などで、室町時代の築山枯山水風の手法を有しており、その南側に江戸時代の観音堂の跡があるので、もともと仏教寺院だったのかもしれません。


讃岐国高松藩3代藩主•松平頼豊(まつだいらよりとよ)の時代には、在国の際には、高松城ではなく、栗林荘(現在の南庭)を居所として充実させていますが、頼豊治世下の元禄13年(1700年)に描かれた『御林御庭之図』を見ると、西湖や涵翠池など紫雲山に接する一帯の水域がとても広く記されているので、当時はまだ豊富な伏流水が湧き出ていたと推測できます。

南湖、西湖、涵翠池など、栗林荘は、香東川の旧河道を利用しているので、伏流水が豊富だったのです。


掬月亭(きくげつてい)


江戸初期の頃(1640年頃)に建てられた回遊式大名庭園の中心的建物であり、歴代藩主が大茶屋と呼び最も愛用した建物である。1745年に、5代藩主松平頼恭公が、中国の詩人于良史の詩の一句「水を掬すれば月手にあり」からとって、掏月亭と命名したものである。


掬月亭


掬月亭