金刀比羅宮

365段 大門


随身門(ずいじんもん)


随身(ずいじん)とは、平安時代以降、貴族の外出時に警護の為に随従した近衛府の官人。令外官。


近衛府には右と左があり、左右近衛府の舎人(とねり しゃじん)として、貴人(上皇 法皇 摂政 関白)や近衛府の高官(大将 中将 少将 衛府や兵衛の長官や次官など)に付き従い警護をする官人(将曹 府生 番長 近衛など)で、当初の職務は衛府の高官の警護だったが、時代が下ると摂関に対する警護が特別の勅許によって「聴される(ゆるされる)」ようになったのが、次第に他の貴族階級にも広がり発展していったもの。


摂関の随身は別勅を付されて、実戦用の武器(弓や矢などの兵仗)を賜わった為、次第に随身を兵仗(ひょうじょう)とする呼称が定着化していった。


後代の廟堂の顕官(摂関など)は「帯剣」「牛車」「随身(兵仗)」が特権として聴された。


上皇の随身は御随身(ごずいしん)と尊称された。

※上皇の手足である代行者と看做したもの


本府随身(中少将や衛門や兵衛佐など)

;近衛府の高官に付き従う官人(中央で採用された終身雇用者)、


小随身(しょうずいしん)

;その他の雑務の為に召し使う臨時の吏人(庶民を現地で採用し雇用する一時的な契約者)、


散所随身(さんじょずいしん)

;近衛府以外の個人間における契約者


摂関の随身は変遷を経た後、藤原頼通以後、左右近衛府生各1、近衛各4、計10人で定着。


上皇の随身は、朱雀 円融両上皇の場合、左右近衛番長各1、近衛各4、計10人、後には左右近衛将曹 府生 番長各1、近衛各4、計14人が定員。


その他、大臣大将は8人(府生1 番長1 近衛6)、大納言大将6人(番長1 近衛5)、中納言中将から少将は衛府長1に小随身2または4。


警護対象者との間に私的かつ主従的な感覚を成立させやすい職務上の傾向が、摂関政治から院政下の時期に強まると朝廷に属する官人だった随身は摂関家や院の家人と化していき、世襲化が進むに連れて、随身の家柄も下毛野 秦 中臣など数氏に固定されるようになると遂には、事実上、近衛府から独立した存在となり、院政期には院司の一部に組み込まれ院の家政を担当するようになった。


随身門は、寺院の仁王門(におうもん)に該当し、神社の外側にある。


向かって左側が、矢大臣神像(やだいじんしんぞう)、右側が左大臣神像(さだいじんしんぞう)。


俗に矢大臣 左大臣。

閽神(かどもり)または看督長(かどおさ)と総称。


正式な随身の姿(矢を背負い剣を帯びた五位以上の武官の服装)に象った随身像を左右に配する随身門は、門守神(かどもり)に護られた神門であることから矢大神門とも称される。


三間一戸の楼門で、質が良く、正背面の中央にも組物を備えるなどの特色をもつ。正面三間の門。


商船三井


英語表記はMOL

大阪商船三井船舶の略称

(住友財閥系の大阪商船と三井財閥系の三井商船)

1964年(昭和39年)、合併


1999年(平成11年)、ナビックスラインと合併


ナビックスラインは、1964年に日東商船と大同商船が合併して出来たジャパンライン(ジライン)が、1989年に山下新日本汽船から吸収合併されて出来た会社。


昭和30年代半ばに海運不況が生じるまで、日本には約150社あまりもの外航海運会社があったが、昭和36年に成立した海運二法に基づいて、95社が国家の補助を受ける形で海運集約に参加。


外航海運業界は、6つのグループに集約された。


現在、外航海運業に登録している企業数は44社。


九州郵船 株式会社

竹永健二郎 代表取締役社長


福岡市本社


壱岐島 対馬との航路への船舶の就航

九州本島と壱岐 対馬 両島間に郵便運送事業

※郵便車を保有しカーフェリーで輸送


桜馬場


こんぴら狗



江戸の昔、"こんぴら参り"の袋を首に飼い主にかわって犬がこんぴらへ首に巻いた袋に初穂料と道中の食費を入れて飼い主が旅の人へ託した犬


無事代参をすませるとふたたび旅をして家族のもとへ


いつの頃からかこんぴら参りのこの犬を"こんぴら狗"と呼ぶようになりました

【説明板】


境内案内図によると、名前は…ゴン犬


仕方なく濁点を付けたのかな⁉️


コンでは狐🦊だからね

(おいっハッバイバイ)




金刀比羅宮 境内案内図



拡大図


神馬(しんめ) 月琴号(げっきん)


日本では、船は丸、馬は号。


御由緒


大国主神の和魂にあらせられる大物主神は農業を始め水陸交通医薬技芸等あらゆる産業や文化に顕著な神徳を発現させられたので国土は大いに治まり民生(民衆の生活)は安定したのである


この浄域はその行宮(あんぐう)のあとに大御神霊が鎮座あそばれされた所で古往(こおう 昔)、御相殿(あいでん)の神崇徳天皇を御始め無数の人々があまねく霊澤に浴した源頭であり


今来(今に至るまで)亦當に神と人との和合せらるべき


たましいのふるさとである



※金城霊澤(きんじょうれいたく)

金沢の由来(石川県 金沢神社)

芋掘藤五郎

京から嫁いできた娘が持参した黄金

人々へ分け与える

湧水で芋洗い

砂金が産出した話


御鎮座 凡三千年前

御相殿 崇徳天皇

社殿修築 長保三年以後数次

社領寄進 元亀四年以後数次

改称 明治元年 金毘羅大権現を金刀比羅宮と御改称

事知神社(ことしり)


積羽八重事代主神(つむはやえことしろぬし)外(ほか)二柱の神

ともに大国主神の御子神にあたられ事知主神は一般に商売の神夷さまとして広く信仰されてい神さまである


社殿 流造 銅板葺


三穂津姫社(みほつひめ)


本宮御祭神大物主神の后(きさい)の神三穂津姫をまつる高皇産霊神(たかみむすび)の御女(むすめ)。社殿は明治9年の建築である


本殿 王子造

拝殿 大社関棟造(たいしゃせきむねづくり)


奉納


団参壱百年記念

愛知金明講



厳島神社(いちきしま)


祭神

市寸姫尊(いちきひめ)


入母屋造平入・檜皮葺


夜景


神社会館


緑黛殿(りょくたいでん)

御祈祷待合所

ベビーケアルーム


2004年5月竣工、建物は村野藤吾賞および日本芸術院賞受賞。参集所や斎館などの施設