新年のおみくじ引いてみた
大吉
果報は寝て待て
:
寝る前に、先ずは就職活動を始めないと(^_^;)
寝てられない
確かに今まで色んな人から様々お誘いがあった。
でも、どんなに笑われてバカにされても、誰かの尻馬に乗ることを決めるより、自分のバカさ加減に拍車をかけることを選んできた。
運命と諦めて身を委ねる人もいることだろうが。
僕は結局、誰かの所為には出来ない性分らしい。
果報を寝て待つことなしに無駄に駆けずり回る。
それも含めた果報は寝て待てなら已むを得ない。
有り難く頂くことにして一層の精進を重ねよう。
何と言っても普段から9割寝ながら生きている。
そう自覚しながらも覚醒を期して足掻いている。
今までのお誘いに対しても、仕事的なヤツも永久就職的なヤツも、分不相応なくらい良いお話だと思うが故に、葛藤する代わりに凌駕を狙う訳だ。
何と傲慢なことか。
理想的な人物と巡り逢える
:
もう十二分に巡り逢わせて頂いている。
自分自身が相手の理想と合致していないことへの申し訳ない気持ちを生きる糧、と言うか死なずに抗う為の原動力にしている。
理想のハードルが斜め上にある人じゃなく、一般的な高みと言うか当たり前の平々凡々な理想をハードルとしている人と巡り逢いたい。
今の世の中は、猫も杓子も知りもしない情報を、本質や内実を考えようともせずに必要以上に忌避したり異常に執着する人ばかりの狂人ばかりで、普通の人がいないような気がしてならない。
誰もが対人恐怖症を抱えて生きていたとしても、僕は驚かない。
僕に理想を見たつもりになるのだけはやめてほしい。
嫌いで嫌いで仕方がないから、少しでも好きになれるようにと言う、利己的な考えで動いているのだから。
思いが相手に通じる時
:
先ずは相手が欲しい。
親や親類の財産があるから結婚をってのじゃなく自分自身の稼ぎと才能で養うからってのでもなく普通にお付き合いを重ねて普通に一緒に過ごして普通に婚姻して普通に添い遂げたい。
困ったら初心を思い出して
:
常日頃から生きることの楽さに辟易しているから死んでいる状態へ向かうことへの憧れには相当なものがある。
子供時分に自衛隊に入ってはいけない、哲学に進んではいけない、芸術家になってはいけない、などなど、ことあるごとに釘を刺されてきたから、自衛隊には入らなかったし、哲学と言うより、文系すら否定され、芸術も否定された上で、生きるように、選択肢を限定されたまま過ごして来た。
きちんと殺されなければ生き返ることは出来ない。
勿論、比喩表現であって、死んだら死んだままになっちゃうので、迂闊に殺されてしまう訳にはいかないけれど、自分ひとりで死に切れるほど甘い世界ではないのですよと声を大にして言いたい。
そもそも誰でも良いから殺してなんて思わない。
思うけど、結局のところは唯一無二の誰かから、殺され続けることで、逆説的に生き続けていたい訳ですよ?
面倒なヤツだな。おまえ。
要するに、食指が動いただけならまだしも、限界を超えて伸ばそうと言うのなら、殺し続ける覚悟で来いや、ってことですよ?
えらそうだな、オイ。
自信なんてなくても良い。
オレ限定だけど自信の塊にしてやんゼ!
殺しにかかる前から、殺される覚悟を決めて、かかって来いやー、デス。
生意気言ってすみません。
そんな感じでイキリながら、生まれる少し前から上等切って生きています。
思うに、初心です。
初めは、カワイイと思ってみやがれ、これ以上ないくらいカワイクしててやるから、って感じで。
カシコイとか、カッコいいとか、カワイクナイとか、いろんな形容詞と格闘してきた訳ですよ。
対人関係と言うのは、たとえ親兄弟姉妹の間柄であっても、戦争ですから、一切の手加減はありません。容赦なく、殺すか殺されるかの世界です。
生かさず殺さずなんてナマヌルい世界で育ったつもりはありません。
考えるな、感じるな、考える前に感じ、感じる前にはヤリ遂げてしまっているのが当たり前。
それが生きると言うことであり死ぬと言うこと。
例外はない。
あるとすれば、それが唯一無二の相手。
物理的に何人もいるかも知れないし。
心理的にも一人ではないかも知れない。
だけど互いに互いを必要とすることは、滅多矢鱈
とあるもんじゃあないし。
矢鱈滅多ら、無闇矢鱈に、誰かを一方的に必要とする訳もなく。しかも死が二人を分かつまで。
互いに互いを必要とするようになることもない。
つまりは修羅の住人に身を堕とし、相手に夢中になり相手の為に身を窶すようになるまである。
それが決定稿になってしまうとしても、まったく別の物語を一から書き下ろすことが出来なければ出会いの意味は失われ、互いの存在理由は崩壊の一途を辿ることとなる。
次代へ譲る為には修羅と修羅の狭間に私情を差し挟んではいけない訳で。
男性同士の間においては世代交代の機運は、否が応にも高めに昂められて抗い合わせられなければならない。
※相手の親である義父と、義理の息子たる間柄
(帝釈天と、妻の舎脂の父親である阿修羅の関係)
一世一代の大芝居を打たなければならない。
何と言っても身近で本物に触れる機会なのだ。
恋する二人は二人だけの世界しか見えてない。
そう言う類い稀な仕合わせのお裾分けに預かる。
そう言うのが生きていて良かった世界だと思う。
型にハマった世界へと導く為に、型にハメる為の役割演技をありとあらゆる皆んなが総出でする。
そんな大きなお世話いっぱいのやさしい世界。
それが本来の、人間が人間らしく生きる世界。
神話や伝説から型を学び、突発的な新たな神話や伝説の始まりに調子を合わせてしまえる社会。
そんな日常を、人の数だけ用意して実現出来る。
それこそが本当の豊かさ、本物の優しさではないだろうか。
真実の愛かどうかなんて誰にも分かりゃしない。
修羅の世界から放逐すれば、後は勝手に須弥山の頂に忉利天を作り上げ、帝釈天の役に収まって、起業家として社会福祉を拡充すべく事業を拡大的に展開していく筈だ。
自分勝手な一方的な愛や幸せの押し売り。
それに飽きてしまったら、過去に執われて自他を公明正大に裁こうとする夜摩天(焔摩天)の時期を経て、過去を顧みて得られた反省を未来では将来しようとする弥勒菩薩として復縁を夢見る兜率天の時期を経て繰り返すことになるか、復縁の可否は別として、過ぎたことを乗り越えてしまうことで、相手の反応にいちいち悩まされたり惑わされることなく、自分の反応と言う原点へと立ち帰ることで娯楽を本質的に窮める化楽天の境地へと至り、遂には相手が互いの成長を観て取って相手の学びの痕跡や成長の軌跡に触れるだけで互いに満たし合える他化自在天の境地へ至ることになる。
それらは社会との関係を断った没交渉のような状態の二人に対して向けている。
二人ですらなくなった後に関しては、仏教では、声聞、縁覚、菩薩、仏を置いているが、連れ合いを失ってしまったら、何をしたとしても、夢の中で過ごすようなものではないだろうか。
いくら過去を顧みたところで、二人の理想とする未来として再興する機会は絶たれた訳だからだ。
そうなったら純正に拘ってはいられない。
苗木同士の時間は終わり、接木同士の時間を迎えることになる。
実際には、苗木と接木の関係だってあるだろう。
勿体無いらしいけど。
まあ、そんなこんなな人生があるんだわあ。
素晴らしい未来への日々になりますように!
おわり