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毎日11往復ガーン


春や昔 十五万石の 城下哉 子規


城山公園

広い 広い だだっぴれえ


山の上に松山城

正面の石垣上の屋敷の奥は庭園。


正面の中央、上に松山城。

城の真下より少し右に入り口だった。

入り口は裏側にもあるが公園内から向かう場合は登り坂なので、公園の外周から回り込む方が良いと後から判明したびっくり


地割と中ノ町


三之丸(堀之内)では、江戸時代の地割となる道路や側溝など中ノ町の遺構を発掘調査で確認した

上で、地下に保護し、往時の姿をしのぶことができるよう、同じ場所を園路として整備しています。

しかし、南北道路6については、発掘調査を行いましたが遺構の大部分が既に破壊されていたため、整備では以前からの園路を活かしつつ、絵図に記された道路幅である三間八寸(約6m)を採用し、部分的に確認された側を石で表現しています。

この南北道路6の両側には家臣達の屋敷が建ち並び、「中ノ町」と呼ばれていました。


※地割

土地をある基準に基づいて区画し、割り振りをすること。

城の場合は道、濠、堀、郭の位置を計画し割り振ること。


城山公園(堀之内地区) 第2期整備事業

令和9年完成予定


本当にだだっぴろい。

小田原城や明石城の充実感たっぷりの状態とは異なり、'殺風景にも程があるだろ'プンプンとツッコミたい気持ちになるかと言うと、実はそうでもなくニヤリ

実際には、見切れているけど、立派な美術館もあって、ジブリ展をしてたし、良い感じの四阿(あずまや)もあって、女子高生が2人、めっちゃ寛いでる感じでだべってたし、グラウンドでは白人種のお父さんと男の子がサッカーボールを蹴りに自転車で来ていたり、たくさんの人が思い思いの楽しみ方で利用していたので、素敵な公園だなと思ったウインク








城山公園


黒門口登城道は、三之丸(堀之内)から二之丸、本丸へと続く大手登城道です。三之丸からの入口となる黒門周辺は、特に堅固な構えで、わずか100m程の間に、黒門、栂門、槻門の三つの門と五度の屈曲が連続し、門には番所が設けられていました。なお、黒門と栂門の間には、腰掛が設けられていました。

明治17年(1884年)、三之丸が兵営にされたことに作い、この登城道は閉鎖されましたが、昭和44年(1969年)に改修され、登城道として再び利用されるようになりました。途中にある中門(塩見門)跡には、往時の石畳がそのまま残されています。


※腰掛・・藩士が登城する際に、お供の者を待たせていた建物。

※黒門・・三之丸から二之丸、本丸へ続く登城道の入口となる門。古文書によると、門の屋根には「矢切」という「忍びかえし」が備えられ、門の左右の石垣上には、岩落や狭間などが備えられた渡塀が続いていた。

※黒門石垣・・西石垣東面が大きく膨らみ出して危険なため、平成19・20年度に解体修復工事を実施した。解体に伴う発掘調査によって、江戸時代に石垣が改修されたことや、西石垣の西側が大規模に盛り土されたこと、また、明治時代に東石垣よりも約1.4m程高かった西石垣が東石垣の高さまで低くされたことがわかった。

江戸時代に改修された石垣の裏から、地蔵の文字と地蔵や侍の絵が墨書されている石が見つかった。工事の安全祈願として入れられた可能性がある。


正面の観覧車は、伊予鉄の松山市駅の駅ビルの高島屋デパートの屋上にあるやつ。多分驚き


松山城二之丸史跡庭園


松山城の二之丸は、本丸を防備するための施設で、南と西側には内堀があり、高い石垣と強固な梅や門、それらをつなぐ塀によって周囲が囲まれていました。

二之丸邸は、蒲生忠知の時代(1627~1634)に完成し、明治5年(1872)の火災によって焼失しました。

二之丸跡は、国指定の史跡で、昭和59年に発掘調査が開始され、3ヶ年の年月をかけて、江戸時代における貴重な遺構群を検出しました。その遺構は、記録したうえ覆土して、大切に保存されています。

この二之丸史跡庭園は、表御殿跡と奥御殿跡とに大別されます。表御殿跡は北半分にある「柑橘・草花園」で各地のカンキツ類や草花で昔の部屋の間取りを表現しています。奥御殿跡は西南部にある「流水園」で、水と砂利と芝生で昔の部屋の間取りを表現しています。

また、「林泉庭」は、露岩を背景にした池・滝を配置して「わび」「さび」を表現しています。庭内には有料施設として、茶会・句会などの文化的な催しに利用していただく「観恒亭」「聚楽亭」「勝山亭」があります。