10月14日 特別公開&スタンプラリー

“はびきの古民家”の日

協力:各民家・羽曳野まち歩きガイドの会


各住宅とも入場無料

時間:午前10時から午後4時まで

(ただし、入場は午後3時30分まで)





〜~民家の豆知識〜〜(*^_^*)


屋根の形式


寄棟造 入母屋造 切妻造(妻入 平入)



 大和天井(やまとてんじょう)

天井裏に仮床を造り、茣蓙(ござ)や筵(むしろ)などを並べた上に10㎝ほどの壁土を敷き詰めたもの。

 土

 竹簀子天井(たけすのこてんじょう)

天井の換気を目的とした天井で、上に蓆(むしろ)を敷いて粘土(漆喰)を載せたもの。

 小屋梁(こやばり)

小屋組の一番下にある部材で、垂木と平行に用いられるもの。

 牛梁(うしばり 中引 なかひき)

屋根の中央を貫く部材。曲がった丸太の太さや形から牛曳き梁、中引き梁とされる。屋根の最上部にある棟木と平行に置かれる木は桁と言い、桁と垂直に交わる木を梁と言うが、牛梁は棟木と同じ桁方向へ置かれ、棟木の下に通される。

長い梁(小屋梁)に掛かる荷重を支える為に置かれた短い梁。

 裏牛梁(うらうしばり)

中引きを挟んで、表牛梁と裏牛梁が置かれる。

 庇(ひさし) 腕木庇(うでぎひさし)

 釣部屋(つりべや)

 大黒柱(だいこくばしら)

 差鴨居(さしかもい)

柱間が一間半以上ある場合に、鴨居が下がらないように、成(せい)の高い H寸法の大きい 太い材を選び、柱間より長い鴨居の端に突起(枘)を作り、柱に空けた枘穴(ほぞあな)に差し込み、地震に強い構造材を兼ねさせることを目的としたもの。

 戸袋(とぶくろ)

複数枚の引き戸を収納する袋状の構造。

 広舗(ひろしき)

台所の上り口の板敷の間。

 大戸口(おおとぐち)

民家の正面にある主要な出入り口。

 裏戸口(うらとぐち)

民家の裏側にある出入り口。

 土間(庭) 通り土間(とおりどま)



 棟木(むなぎ)

棟(小屋の頂部)に取り付ける横木。両側の垂木を受ける。棟木の取り付けを棟上げと言い、上棟式が行われる。

 叉首(さす)

切妻屋根の両端に、棟木を受ける為に組む材。古くは上部を交叉させて組んだ。

 高塀造(たかべいづくり 大和棟)

大和 河内地方の民家の形式で、緩い勾配の瓦屋根の上に、藁葺きで強い勾配の切妻屋根を載せ、妻に沿って瓦葺の小さな袖壁を棟まで登らせている。江戸時代以後、地主や上流の自作農が建てたもの。羽曳野市の吉村家住宅が代表例。

 束(つか)

2階の梁の上に立てる短い柱を小屋束(こやつか)には、真束 杵束 蕪束 対束 吊束などの種類がある。

真束(しんづか)は棟木の真下の真ん中の束(キングポスト)、杵束(きねつか)は合掌や枝束など斜材を受ける束で上下両端が太く形が手杵に似ている、蕪束(かぶらづか)は洋風寄棟小屋組で隅合掌が集まる真束のことで南瓜束とも、対束(ついづか)は屋根裏を生活空間として活用する為の小屋組で、洋小屋組ではクイーンポストトラス(三角形状の骨組みの中央部の長方形の縦の2辺)、吊束(つりづか)は桁や梁から吊り下げる束で鴨居や長押を支えたり欄間の取り付け時に用いられる。

1階床下に立てる短い材を床束(ゆかつか)と言う。

 貫(ぬき)

柱の列を横に通して、柱を安定させる用材。

 根太(ねだ)

住宅の床を支える補強材で床板を張る下地材を兼ねている。

 身舎(おもや 母屋)

寝殿造で、庇に対して、家屋の主体をなす部分。


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■重要文化財 吉村家住宅

島泉5丁目3-5


桃山期の書院造の建築様式を一部に留める代表的な大庄屋の民家で、昭和12年(1937)に国の重要文化財に指定されました。

吉村家の祖先は鎌倉時代初め、当地付近に土着した佐々木高綱の子孫と伝えられ、代々 丹比野(たじひの)の有力名主で南北朝から戦国時代にかけては丹下一族と言われる土豪でした。

天正年間(1573~1592)以後は姓を「吉村」と改め江戸時代初期には庄屋兼代官、正徳年間(1711~1716)以後は丹北•八上の両郡内の 18 ヶ村の大庄屋をつとめてきた名家であり邸宅も独特の風格をもっています。


豊録文化財 松村家住宅

島泉2丁目6-27


敷地の南中央に長屋門を開き、屋敷の中央に主屋を建てます。

主屋の後ろに蔵2棟、長屋門の西に蔵1棟を配置しています。

長屋鬥の供部屋(ともべや)などの構成や、大和棟の主屋の間取りなどは、吉村家住宅に類似するところがあります。

主屋の主要部分は江戸時代末期から明治時代にかけて、3棟の蔵は江戸時代に建築されたと考えられるもので、河内地域の庄屋の住宅の姿をよく残しており、平成18年8月に国の有形文化財に登録されました。


羽曳野市指走文化財 畑田家住宅

羽曳野市郡戸 470


江戸時代に庄屋をつとめた旧家の住宅で、敷地の北東に長屋門を置き、南東に長屋門とその西に2棟の土蔵が連なります。主屋の西には納屋、東には付属屋が建っています。厨子二階をもつ主屋は、田の宇形平面に座敷がつき、土間の奥の架構に古い伝統を残します。これらは明治時代初期の旧家の屋敷構えや意匠をよく残しており、平成29 年3月に羽曳野市の指定文化財になりました。


周辺の歴史遺産


大津神社 高鷲8丁目1-2


別名 丹下の大社として親しまれています。平安時代前期の延喜式に記載された式内社で、天皇から進物を受けていた由緒ある神社です。付近には古代、「古市大溝」という人工水路が流れていたことから、この地を本拠地として貢ぎ物の輸送にかかわっていた渡来系氏族の船氏(ふな) 葛井氏(ふじい) 津氏のうち、津氏の祖先神を記った社であったと考えられます。江戸時代には、丹下9ヵ村の氏神として崇拝を集めました。現在の社殿は寛永17年(1640)に立てられた本殿、拝殿、幣殿からなります。

7月8日に行われる茅の輪くぐり(無病息災)が有名です。


明教寺 島泉2丁目2-22


社殿によると推古8年(600)、天皇の発願によって創建され鳳凰寺と名付けられましたが、天平宝字8年(764)に、称徳天皇より高鷲山鳳凰堂明教寺の名前をさずかりました。はじめは天台宗に属し、鎌倉時代初期に順徳天皇の皇子、彦成王が出家して「慶誉」(けいよ)と称しこの寺の住職になりました。その際、親鸞に帰依して浄土真宗に改宗しました。その後、戦国末期の戦いで本堂などが焼失しましたが、天正18年(1590)に豊臣秀吉により昔からの境内地を与えられ再建されました。現在は、山門、太鼓鐘楼、本堂、庫裏

(台所)、玄関等が存在しています。


竹内街道・緑の一里塚

羽曳野市野


推古天皇 21年(613)に難波から飛鳥(奈良)へ通じる”大道”を築きました。大道は五世紀の頃にすでにあった「丹比道」と呼ばれた古道を整備して、大きな官道に造りあげました。この道こそが我が国最初の国道とされ、飛鳥時代の東西交通の大動脈として利用されました。羽曳野市を横断するこの街道沿いには野中寺や西琳寺などの古代寺院が創建されるなど、その重要性がうかがわれます。また、近世にはお伊勢参り、商都堺へ通じる道として人々の往来が盛んに行われました。

大道を整備して1400年を記念し、一里塚が植えられました。