<私見>

殺すか殺されるかを選ばなければならない社会が現出していることが問題であって…
加害者が悪い被害者が悪いの話ではない。

今、日本だけに限ったことではないが世界中に空想的で非現実的な人身売買が存在している。

夢を売ると称する商売に従事する人のことだ。

昔、日本だけでなく世界中に現実的な人身売買が存在し直接的な取引が成立していた。

良いか悪いか善悪を論じる気持ちはない。

僕は性と言うものが二元的な両極端の物質ではないと理解している…寧ろ円環のような車輪のようなウロボロスのような永劫回帰や循環へと接続しているようだと考えている。

人身売買は、単純なマンパワー(労働力)を目的とするだろうか?

そこには性的な視点が介在するように思う。

性的とは男性や女性と言う成熟した肉体的な性的特徴を指すものではなく…寧ろ社会生活上に存在した証拠を示す情報…人間存在そのものが取引の具にされていると考えるからだ。

それは一般的な就職活動も同様だ。

現在の社会では、自分自身の人身売買を自らの意志で行う機会が多々あり、その社会的高負荷を避けるためだけの為に、さらなる人身売買を請け負う派遣業に頼る事態も頻発している。

自然災害と言う名の社会基盤に対する高負荷により地方自治体は国への経済的依存を深める。

それは決して良いことではない。
国家の運営それ自体が、民主的姿勢を反映したものであるなら有難いものかも知れない。

しかし、度重なる災害が自然への備えを怠った結果のものだとしたら話は違ってくる。

今、退職し年金生活を送っている人の世代と、その子供の世代とで何が違うのだろう?

仕事上の現役生活を了えて、引退生活を始める時に上手に生きることが困難になるとすれば、それは子供のまま大人になれずに過ごして来たからに他ならない。

松竹梅の竹という群生への適応段階で留まってしまい、梅という個かつ共鳴し合うことで全としても存在するような臨機応変に適合し最適化を促し合える段階へは至ってないことを示す。

松とは順応段階。

基本的に人間種であることに変わりはない以上は親世代も子世代も等しく変わらない。

異なるのは順応段階における成長過程だ。

絶望的な環境と周囲の期待値と意欲の高保持。
対して恵まれた環境の中で保てなかった意欲。
と言うことに尽きるだろう。

これを社会禍と言わず何と呼べば良いのか?

厳しい環境で育ち自らの環境を整備した人々は優しさに溢れている筈の環境で苗を腐らせた。

自らを厳しい環境へと追いやろうとする子供が親を慮って引き籠るのか反発を抱えて自傷してしまうのか内圧が膨張して自殺や他殺へと至るのかの違いというものも、醸造や発酵や危険物を取り扱う文明を築いている人類であるならば自らの状況を理解して早期に対処し解決に向かっても良かった筈だと思う。

'何をか言わんや'だ!

 参照
Wikipedia
カシオ電子辞書