道明寺天満宮(土師氏の氏社)
※道明寺は土師氏の氏寺
※葛井寺は葛井連(白猪氏)の氏寺
(百済辰孫王の後裔の王辰爾の甥の胆津が祖)
(吉備国の白猪屯倉の田部の丁を定めた)

和気清麻呂(護王神社)は、猪を神使とする。
※私見では和気氏は土師氏と同一

土師氏の子孫である菅原道真
本殿の裏に広大な梅の庭園を持つ
どこか大陸的な建物を配している


表参道


神代蕭雍百世長斯

玄徳明美萬邦咸致尊親


小林一茶


青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで


道明寺天満宮で 一茶の句

※33歳の時(1795年) 西国行脚


書 榊莫山


菅原道真公ゆかりの神社で、古墳造営など土木技術に長じた土師氏の氏神として成立したとも考えられる。古くは土師神社と称し、菅原道真公・天穂日命・菅公の叔母覚寿尼を祭神としている。菅公の遺品として銀装革帯(ベルト)や青白磁円硯など平安時代の美術工芸の代表作が伝えられており、国宝に指定されている。

 広い境内には、約80種800本の梅林があり梅の名所として知られるほか、三塚古墳周濠より出土した修羅の復元品がある。


 垂仁天皇の32年(西暦3年)、野見宿禰が埴輪を創り殉死に代えた功績により、「土師」の姓と この辺り一帯を所領地として賜って以来、遠祖 天穂日命をお祀りし、土師神社と称した。

 推古天皇2年(594)には、聖徳太子の発願により、土師八嶋が自宅を喜捨し、土師寺を建立。

 土師氏は「菅原」へと改称し、菅原氏の氏神となり、菅原道真公のおば様である覚寿尼公が住まいとしたので、道真公は当地を度々訪問される。

 昌泰4年(901)道真公筑紫へ下向の時、

 世につれて難波入江もにごるなり

  道明けらけき寺ぞこひしき

と詠まれ、道明寺へ訪問されるも、鶏鳴により出発することとなり、

 鳴けばこそ別れるも憂けれ鶏の音の

  なからん里の暁もかな

との御歌を残されて西海に赴かれた。

 その後、天暦元年(947)に遺し置かれた木像をご神宝(国宝)として安置し天満宮を創建、土師神社を道明寺天満宮と改めた。

 明治5年(1872)、神仏分界により、尼寺は西に移転し、現在に至る。


つまり、上記末文の西に移転した尼寺が現在の道明寺(真言宗御室派 蓮土山)。


道明寺とは、菅原道真公が筑紫下向の折に詠まれた御歌の"道明けらけき寺"から採択したものと言うことなのだろう。


国歌に詠まれている

 さざれ石

君が代は千代に八千代に

 さざれ石の巌となりて

  苔のむすまで


君が代は 小石が大きな岩となり

そこに苔が生えるほど 永久に坐しませと 長い年月が目に映るようにめでたく詠まれています

 この岩は 白亜紀後期(7千万年前)の岩です 悠久の歳月の間に多くの小石が寄り集まってできたもので 河内長野市滝畑から平成の御大典記念として移しました


撫で牛


 牛は天神さまのお使いとして知られています 牛にまつわる伝説は全国に多く 当地でも白牛に助けられたことが伝えられています

 自分の悪いところを撫でると良くなるといわれた撫で牛が戦前まで残っていましたが 現在は台座のみとなっていました

 このたびの御祭神千百年大祭を記念し ここに復興するものです


 平成14年正月

  奉納  永田秀夫

        富子


   設計製作 戈 建明

   監修   山崎暉夫

 ご参拝の作法

(二拝二拍手一拝のしかた)


まず

 拝礼(90度に腰を折り頭を下げる)を二回繰り返す


次に

 両手を胸の高さで合わせ、二回拍手をして祈る


おわりに

 もう一度拝礼を行う


撫で牛


撫で牛


撫で牛


撫で牛


戦前の撫で牛は、さざれ石のように、全国の天満宮(天神社)の撫で牛となったのだろうか?