海賊という本来は非公式な軍属の船団が、これほどまでに大人の心を掴んで離さなくなってきたのは、国体を政治家の舵取りに任せてきた国民自身が世界の大海原へ漕ぎ出していかなければならないと固く思い染めてきた長年の結晶が、震災・原発に続く政治的人災を機に、心の中から現実の社会へと次第に噴出してきた結果なのかと思う。毎日、見えない放射線に脅かされ内部被曝を憂う。しかし、このパンドラの箱にも、今を生きて次代を創造する子供たちが残されていると。大人たちの真摯な思いの結晶は、今はまだ音楽やアニメ、本や絵,ファッションなどのデフォルメが幾重にもかけられてたフィルターの中に沈んでいるけれど、その思いの結晶は,いずれ魔法のように融解し、すべてを失った,この世界に希望を齎すでしょう。箱の最後に残った希望のように。この三度目の戦争(人類対人類が作り出した自由主義経済※オートメーションという不条理な合理主義社会)が、地球という偉大な御祖、微生物や植物といった長子,嫡流の命、先行する次子、末子たる私たちの,生命の円環を完全に断ち切って,閉じてしまう前に。きっと、あの島を見つけてくれるでしょう。

あの島 原子力に依存しない あの島へ行こう。

こんなことで、輪廻の輪を切ってはいけない。わたしたちが切るべき輪廻の円環は、生命の循環のことじゃない。
断ち切るべき輪廻の円環とは、日常に埋没しては,思いもよらない時に噴出する,あの悲運の円環。運命という目には見えない諦めと,必要のない期待を強いる、心根を悪くさせる不幸の円環のことなんだ。と思います。

だから、あの島へ行こう。
子供たちが,あの島へ行けるように、生まれたてから死ぬまで,全ての世代は、相互の教育を継続して協力し合い、教え合い学び合い、高め合って生き抜かなければならないでしょう。

子供が子供である時間は永遠ではなく、一瞬の瞬間の連続で、大人が追いかけても、そこには埋まらない時間の早さと空間の広まりがあります。だけれど、だからこそ、大人は子供に先行している、子供から大人へと成長した、子供だった大人として子供に学び、時には自ら子供を取り戻し、普段は子供に大人への道や,頼るべき背中の意味を,導き指し示す、そうした繋がりの中で生きていきたいと、そう思います。

あの島 子供は どんな島を目指すでしょうか?
大人に その島は 見えているのだろうか?
誰もが、ロビンソン・クルーソーになるべきで。ジプシーや難民になるべきではない。
私たちは,地球を御祖とするならば、微生物や植物の、ずっとずっと後から生まれてきた末子。後発組の生命体じゃなかったのか?
大気と水に包まれた、この住みよい家に、居座っているばかりか、親の懐から,早逝した生命が親に返す途中の肉体の残滓を掠め取り、
挙句の果てに,自分の占拠する家の屋台骨までバラバラにする気なのか?
この大気と水の循環、この生命の循環、この家が無事だからこそ、生きている私たち。

今、空を飛ぶ,あの海鳥も、蜻蛉や蠅や、翼持ち,空を自由に飛ぶ者も、目に見えないものに生命の鎖を断ち切られていく。
この鎖は,約束の鎖。自らを,大気と水と大地に繋ぐ要の鎖。それは、体の器と心の檻を繋げる鎖。この目には見えない非常に細く長い鎖が、われわれの生命を,すべての宇宙の未だ知らぬ生命とを繋いでいる。宇宙が差し伸べる見えない光。

大人は、むしろ子供たちよりも、ロビンソンにならなければならない。
無名のロビンソンに。
たとえ眼前の大海原の波浪に呑み込まれる一群のレミングになろうとも。
行かなければならない。
子供たちの目の前で。海に出なければならない。
周到な準備を怠らず、気持ちの整理も落ち着かせ、そして、
たとえ船が難破して、溺れても困らない、
無名のロビンソンを嘆いても、嘆かれることもない無辜のレミングには,ならない勇気と信念を固く持ち、
行かなければならない。

ジプシーはダメだ。 難民はダメだ。
生きて帰って、自分を立てる。そんな,もう一人のロビン。ロビンソン・クルーソーでなければ。
そう、あのシャックルトンのように。
そう、あの島 原子力に依存しない あの島へ行こう。
よその星じゃない。それは、よその国じゃない。自分たちの星。自分たちの国。じぶんたちの町、ふるさと。
あの島へ行こう。原子力に依存しない日本へ。

※考えてみれば、一時期は流行現象だったアニメのエヴァンゲリオンも、元は風の谷のナウシカの巨神兵をモデルにしている。それはウルトラマンの風景と、漫画版ナウシカも含めた生命ならぬものと生命ならぬものとの擬似的な親子関係のような心象風景が、底流を為しているものだと思える。
巨神兵は、謂わば原子力発電所や原子力潜水艦に相当する訳だから、派生生物であるナウシカたち人造人間や王蟲を始めとする巨大昆虫や空気清浄機能を持った植物たち、それらは世界が浄火によって覆われる前の人間に帰することを前提とするならば、共生の出来ない存在であって、言い換えれば、物語の進行の時点で原子力と人間とは共生出来なかった=現代人と原子力も共生出来ないというメッセージを持たせてあるのが、ナウシカの世界で、逆に襲来生物に対して核兵器の使用を躊躇わないエヴァンゲリオンの世界は、共生は出来ないかもしれないけれど、世代間の認識の擦れを産みながら、それ(共生に似た依存関係)は継続し、違和感と変化に対する期待感を抱かせながら、代わり映えのしない関係性(碇シンジの父親であるゲンドウ司令を愛慕する、実は碇シンジの母親のDNAから複製された人工的な生命であるところの綾波レイ 、それを意識する主人公である碇シンジという存在は、仮想敵国や宇宙人や隕石の襲来に対する核武装という名目の異常性との間に、母性愛に似た包容力を感じながら、それを監督する父性愛的な指導力に対して、憧憬と同時に反発を抱く反抗期を迎える年頃の少年的な、そんな時期を過ごしていたのだろう)を展開している現在までの国際社会を明確に表現しつつ、違うところは、襲来生物を用意しているところで、核戦争が勃発した場合には、何れの国や地域も、核兵器に依存した言い訳を、嘘を嘘で塗り固めるように、襲来生物という虚像によって、虚像と虚像とを代理戦争のように仕立て上げていかざるを得なくなるという、道化芝居を演じることを、互いに強要し続けるだろうことを暗喩として明確に描ききっている。
まあ、今までの現代社会はそうだった。
やっと、今回の戦争の終結が見えた昨今、これからの展開は、注意深く押さえておく必要があるだろう。
自分の生き方に関心があるのならば。